常連は、私の外には、経済学部の河田博士と文学部の狩野博士で、時には法学部の佐々木博士、竹田博士、文学部の和辻博士、沢村専太郎などいう人が加わったこともある。いつも朝から集って、夕暮時になるまで遊んだもので、会費は五円ずつ持ち寄り、昼食は然るべき料理屋から取り寄せて貰った。当時はすでに故人となっていた有島武郎氏が京都ではいつも定宿にしていたあかまんや[#「あかまんや」に傍点]という素人風の宿屋があったが、そこの女主人がいつも席上の周旋に遣って来て、墨を磨《す》ったり、食事の世話を手伝ったりしていた。(この婦人は吾々《われわれ》のかいたものを役得に持って帰ることを楽みにしていた。いつも丸髷《まるまげ》を結っていた此の女は、美しくもなく粋《いき》でもなかったが、何彼と吾々の座興を助けた。近頃聞くところによれば、何かの事情で青楓氏はこの女と絶交されたそうだが、今はもう亡くなって居るとのことである。)
私はこの翰墨会《かんぼくかい》で初めて画箋紙《がせんし》に日本画を描くことを学んだ。半截を赤毛氈《あかもうせん》の上に展《ひろ》げて、青楓氏が梅の老木か何かを描き、そこへ私に竹を添えろと云われた
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