山陽線の下り汽車に乗ると、麻里布駅の次が岩国駅になっているが、稲田家はその麻里布駅に近く、私の家は岩国駅に近い。しかし当時はまだそんな鉄道など見ることも出来なかった。で、叔母は川舟に乗って嫁入をした。
 叔母がその時どんな服装をしていたか、全く覚えていないが、ともかく彼女は私のうちを出て、土手を越し、竹藪《たけやぶ》の中の雑草の生茂った細道を通り抜け、川原畑の畦道《あぜみち》を歩いて、一面の石ころに覆われた川原に出で、そこから舟に乗ったものに相違ない。それは俥などの通り得る道ではなかった。祖母、父、母、私、弟、これがその一行であったであろう。末の弟は前年に生れてまだ誕生日を過ぎぬ頃のことであったから、多分誰かに預けられて留守居したであろう。
 赤い毛氈《もうせん》を敷いた一艘《いっそう》の屋形舟は、一行を載せ、夏の川風に吹かれながら、鮎や鮠《はえ》などの泳いでいる清い流れの錦川を棹《さお》さして下った。
 舟を下りてから稲田家までは、多分俥に乗ったであろう、私は今覚えていない。ただ覚えているのは、稲田家の門が寺の門のように大きく、扉には大きな鋲飾《びょうかざ》りなどが打ってあり、通された表座敷の襖《ふすま》には大字の書が張ってあって、芝居の舞台が聯想《れんそう》されたことである。
 稲田家は当時士族になっていたが、明治以前は香川という家老の家来で、謂《い》わゆる復家来《またげらい》であったから、私のうちより家柄は低かった。しかし村での大地主で、家の構えなどもそのあたりでは宏荘《こうそう》なものに見えていたのである。
 家風と云うか、生活態度と云うか、そう云った家庭の雰囲気は、貧しいながらも侍の家系を承け継いだ私の家と、おのずから趣を異にするものがあったが、叔母は日を経るに従って、自分の住む環境に同化して行った。そして遂にここでその一生を終ったのである。
 自分の実子がある訳ではなく、食うに困る訳でもないのに、後には麦稈真田《ばっかんさなだ》などの賃仕事を引受け、僅かばかりの小銭を儲《もう》けることを楽みにしたり、すべてが次第に吝嗇臭《けちくさ》く土臭くなって来た。しかし当人がそれに安住して生涯を終られたのだから、(不幸にして彼女は母に先だち兄に先だち夫にも先だったが、)この最後の結婚は彼女にとって幸福なものであったのだと、私は考えている。
 数え十五歳の時に、私は郷
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