閑人詩話
河上肇

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)杏《あんず》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)巴山|此《ここ》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「特のへん+古」、第4水準2−80−21]

 [#…]:返り点
 (例)書[#二]李世南所[#レ]畫秋景[#一]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ふら/\と
−−

 佐藤春夫の車塵集を見ると、「杏花一孤村、流水数間屋、夕陽不見人、※[#「特のへん+古」、第4水準2−80−21]牛麦中宿」といふ五絶を、

[#ここから3字下げ]
杏《あんず》咲くさびしき田舎
川添ひや家をちこち
入日さし人げもなくて
麦畑にねむる牛あり
[#ここで字下げ終わり]

と訳してあるが、「家をちこち」はどうかと思ふ。原詩にいふ数間の屋は、三間か四間かの小さな一軒の家を指したものに相違なからう。古くは陶淵明の「園田の居に帰る」と題する詩に、「拙を守つて園田に帰る、方宅十余畝、草屋八九間」云々とあるは、人のよく知るところ。また蘇東坡の詩にいふところの「東坡数間の屋」、乃至、陸放翁の詩にいふところの「仕宦五十年、終に熱官を慕はず、年齢《とし》八十を過ぎ、久く已に一棺を弁ず、廬を結ぶ十余間、身を著けて海の寛きが如し」といふの類、「間」はいづれも室の意であり、草屋八九間、東坡数間屋、結廬十余間は、みな間数《まかず》を示したものである。杏花一孤村流水数間屋にしても、川添ひに小さな家が一軒あると解して少しも差支ないが、車塵集は何が故に数間の屋を数軒の家と解したのであらうか。専門家がこんなことを誤解する筈もなからうが。
 「遠近皆僧刹、西村八九家」、これは郭祥正の詩、「春水六七里、夕陽三四家」、これは陸放翁の詩。これらこそは家をちこちであらう。

                ○

 孟浩然集を見ると、五言絶句は僅に十九首しか残つて居ないが、唐詩選にはその中から二[#「二」に「〔三〕」の注記]首採つてある。しかし私は取り残してある「建徳江に宿す」の詩が、十九首の中で一番好きである。それはかう云ふのだ。

[#ここから3字下げ]
移舟泊烟渚    舟を移して烟渚に泊せば、
日暮客愁新    日暮れて客愁新たなり。
野曠天低樹    野曠うして天《そら》樹に低《た》れ、
江清月近人    江清うして月人に近し。
[#ここで字下げ終わり]

 小杉放庵の『唐詩及唐詩人』には、この詩の起句を「烟渚に泊す[#「泊す」に白丸傍点]」と読み切つてあり、結句を「月人に近づく[#「近づく」に白丸傍点]」と読ませてある。しかし私は、「烟渚に泊せば[#「泊せば」に白丸傍点]」と読み続けたく、また「月人に近し[#「近し」に白丸傍点]」と、月を静かなものにして置きたい。
 なほ野曠天低樹は、舟の中から陸上を望んだ景色であり、そこの樹はひろびろとした野原の果てにある樹なので、遥に人に遠い。(近ければ野曠しと云ふことにならない。)次に江清月近人の方は、舟の中から江を望んだ景色であらう。そして江清しと云ふは、昼間見た時は濁つてゐたのに、今は月光のため浄化されてゐるのであらう。月はもちろん明月で、盥《たらひ》のやうに大きく、ひどく近距離に感じられるのである。私は明月に対し、月が近いとは感じても、月が自分の方へ近づいて来ると感じ〔た〕ことはない。で月人に近しと読み、月人に近づくと読むことを欲しない。

                ○

 孟浩然の詩で唐詩選に載せられて居るものは七首あるが、その何れにも現れて居ない特徴が、全集を見ると眼に映じて来る。それは同じ文字が一つ詩の中に重ね用ひられて居ると云ふことである。例へば「友人の京に之くを送る」と題する五絶に、次のやうなのがある。

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君登青雲去    君は青雲に登りて去り、
余望青山歸    余《われ》は青山を望んで帰る。
雲山從此別    雲山これより別かる、
涙濕薜蘿衣    涙は湿す薜蘿《ヘイラ》の衣《ころも》。
[#ここで字下げ終わり]

 僅か二十字のうち、青雲青山雲山と同じ字が三つも重なつてゐるが、その重なり方がおもしろい。吾々は少しも不自然を感ぜず、却て特殊の味ひを覚える。
 以下重字の例を列記して見る。
[#ここから2字下げ]
朝游訪名山[#「山」に白丸傍点]、山[#「山」に白丸傍点]遠在空翠。(尋香山湛上人)
悠悠清江水[#「水」に白丸傍点]、水[#「水」に白丸傍点]落沙嶼出。(登江中孤嶼)
鴛鴦※[#「さんずい+鷄」、第4水準2−94−45」]※[#「(來+攵)/鳥」、227−11]満沙頭[#「沙頭」に白丸傍点]、沙頭[#「沙頭」に白丸傍点]日落沙[#「沙」に白丸傍点]磧長、金沙[#「沙」に白丸傍点]耀耀動飆光。(鸚鵡洲送王九遊江左)
売薬来西村[#「村」に白丸傍点]、村[#「村」に白丸傍点]烟日云夕。(山中逢道士)
煙波愁我心[#「心」に白丸傍点]、心[#「心」に白丸傍点]馳茅山洞。(宿揚子津)
余亦乗舟帰鹿門[#「鹿門」に白丸傍点]、鹿門[#「鹿門」に白丸傍点]月照開煙樹。(夜帰鹿門歌)
山公常酔習家池[#「池」に白丸傍点]、池[#「池」に白丸傍点]辺釣女自相随。(高陽池送朱二)
翻向此中牧征馬[#「征馬」に白丸傍点]、征馬[#「征馬」に白丸傍点]分飛日漸斜。(同上)
傲吏[#「吏」に白丸傍点]非凡吏[#「吏」に白丸傍点]、名流[#「流」に白丸傍点]即道流[#「流」に白丸傍点]。(梅道士水亭)
払衣去何処、高枕南[#「南」に白丸傍点]山南[#「南」に白丸傍点]。(京還贈張維)
河[#「河」に白丸傍点]県柳林辺、河[#「河」に白丸傍点]橋晩泊船。(臨渙裴明府席遇張十一房六)
県城南面漢江[#「江」に白丸傍点]流、江[#「江」に白丸傍点]嶂開成南雍州。(登安陽城楼)
異俗[#「俗」に白丸傍点]非郷俗[#「俗」に白丸傍点]、新年[#「年」に白丸傍点]改故年[#「年」に白丸傍点]。(薊門看灯)
試登秦[#「秦」に白丸傍点]嶺望秦[#「秦」に白丸傍点]川。(越中送張少府帰秦中)
[#ここで字下げ終わり]
 拾つて見ればこの程度のものに過ぎぬが、残つてゐる詩が極めて少いので、これだけのものでも特に目に着く。

                ○

 絶句や律詩では、例へば李太白の「一[#「一」に白丸傍点]叫一[#「一」に白丸傍点]廻腸一[#「一」に白丸傍点]断、三[#「三」に白丸傍点]春三[#「三」に白丸傍点]月隠三[#「三」に白丸傍点]巴」の如く、王勃の「九[#「九」に白丸傍点]月九[#「九」に白丸傍点]日望郷台、他[#「他」に白丸傍点]席他[#「他」に白丸傍点]郷送客杯」や「故[#「故」に白丸傍点]人故[#「故」に白丸傍点]情懐故[#「故」に白丸傍点]宴、相[#「相」に白丸傍点]望相[#「相」に白丸傍点]思不相[#「相」に白丸傍点]見」の如く、高青邱の「渡水[#「渡水」に白丸傍点]復渡水[#「渡水」に白丸傍点]、看花[#「看花」に白丸傍点]還看花[#「看花」に白丸傍点]、春風江上路、不覚到君家」の如く、王安石の「水[#「水」に白丸傍点]南水[#「水」に白丸傍点]北重重[#「重重」に白丸傍点]柳、山[#「山」に白丸傍点]後山[#「山」に白丸傍点]前処処[#「処処」に白丸傍点]梅、未即此身随物化、年年長趁此時来」の如く、また陸放翁の「不[#「不」に白丸傍点]飢不[#「不」に白丸傍点]寒万事足、有[#「有」に白丸傍点]山有[#「有」に白丸傍点]水一生閑、朱門不管渠痴絶、自愛茅茨三両間」の如く、一句中に同字を用ひるは差支なきも、一首中に句を別にして同字を重ね用ひるは、原則として厭むべきものとされてゐる。しかし同字の重畳によつて却て用語の妙を発揮せる例も少くない。
 前に掲げた孟浩然の送友人之京と題せる五絶の如きは、その適例の一つであるが、文同(晩唐)の望雲楼と題する次の五絶の如きも、各句に楼字を重ね用ひることによつて、特殊の味を出して居ると思はれる。

[#ここから3字下げ]
巴山樓[#「樓」に白丸傍点]之東    巴山は楼の東、
秦嶺樓[#「樓」に白丸傍点]之北    秦嶺は楼の北。
樓[#「樓」に白丸傍点]上捲簾時    楼上簾を捲くの時、
滿樓[#「樓」に白丸傍点]雲一色    楼に満つ雲一色。
[#ここで字下げ終わり]

 家鉉翁(晩唐)の寄江南故人と題する次の詩も、やはり同字の重畳に面白味がある。

[#ここから3字下げ]
曾向錢唐[#「錢唐」に白丸傍点]住    曾て銭唐に向つて住し、
聞鵲憶蜀[#「蜀」に白丸傍点]郷    鵲を聞いて蜀郷を憶ひき。
不知今夕夢    知らず今夕の夢、
到[#「到」に白三角傍点]蜀[#「蜀」に白丸傍点]到[#「到」に白三角傍点]錢唐[#「錢唐」に白丸傍点]    蜀に到るか銭唐に到るか。
[#ここで字下げ終わり]

 銭唐は今の浙江省の銭塘で、即ち江南であり、蜀は今の四川省に当る北地。向つては於いてと云ふに同じ。作者は今、郷里の蜀地にも居らず、また曾て住みたる銭塘にも居らず、却て友人の銭塘に在るを憶へるのである。
 張文姫(鮑参軍妻)渓口雲詩にいふ、溶溶渓[#「渓」に白丸傍点]口雲、纔向渓中[#「渓中」に白丸傍点]吐、不復帰渓中[#「渓中」に白丸傍点]、還作渓中[#「渓中」に白丸傍点]雨(溶々たる渓口の雲、纔に渓中に向つて吐く。復び渓中に帰らず、還た渓中の雨と作る。)これも亦た重字の妙を得たものと云へる。
 また鄭谷の淮上与友人別詩にいふ、揚子江[#「江」に白丸傍点]頭楊[#「楊」に白丸傍点]柳春、楊[#「楊」に白丸傍点]花愁殺渡江[#「江」に白丸傍点]人、数声風笛離亭晩、君向[#「向」に白丸傍点]瀟湘我向[#「向」に白丸傍点]秦と。江字、楊字、向字各※[#二の字点、1−2−22]重出して却て詩美を成す。
 白楽天の憶江柳詩、また同じ。曾栽楊柳江南岸[#「江南岸」に白丸傍点]、一別江南[#「江南」に白丸傍点]両度春、遥憶青青江岸[#「江岸」に白丸傍点]上、不知攀折是何人。
 以上の例と違ひ、わざとらしく同字を重ねたものは、概して鼻につく。次に若干の例を挙げて見る。


[#ここから3字下げ]
 亂後曲江     王駕

憶昔曾遊[#「遊」に白三角傍点]曲水濱未春[#「春」に白丸傍点]長有探春[#「春」に白丸傍点]人[#「人」に白三角傍点]遊[#「遊」に白三角傍点]春[#「春」に白丸傍点]人[#「人」に白三角傍点]盡空池在直至春[#「春」に白丸傍点]深不似春[#「春」に白丸傍点]
(憶ふ昔し曾て曲水の浜《ほとり》に遊ぶや、未だ春ならざるに長《とこし》へに春を探るの人有りしに、春に遊ぶの人尽きて空く池在り、直ちに春の深きに至りて春に似ず。)


 古意     王駕

夫[#「夫」に白丸傍点]戍蕭關妾[#「妾」に白三角傍点]在呉西風吹妾妾[#「妾妾」に白三角傍点]憂夫[#「夫」に白丸傍点]一行書信千行涙寒到[#「到」に白丸傍点]君邊衣到[#「到」に白丸傍点]無
[#ここで字下げ終わり]

 前の詩には春字五、遊、人の二字は各※[#二の字点、1−2−22]二、後の詩には妾字五[#「五」に「〔三〕」の注記]、夫、到の二字が各※[#二の字点、1−2−22]二、重複してゐるが、そのために特別の味が出てゐるとは思はれない。


[#ここから3字下げ]
 春夜     劉象

幾處[#「處」に白三角傍点]兵戈阻路岐憶山[#「山」に白丸傍点]心切與山[#「山」に白丸傍点]違時難何處[#「處」に白三角傍点]披懷抱日日日[#「日日日」に白丸傍点]斜空醉歸
(幾処か兵戈路岐を阻て、山を憶ふ心切にして山と違ふ。時難にして何れの処か懐抱を披かん、日々日斜にして空く酔うて帰る。)


 春夜     劉象

一別杜陵歸未期祇憑魂夢接親
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