日本読みにするために、日本人の作る漢詩の特徴たるべきものである。
元来漢字の発音は支那でも上下数千年の間に少からぬ変化をして居るのであるから、現代の支那人でも、例へば唐の時代の作者が人に読んで貰ふつもりで居たやうな発音で、唐詩を読んでゐる訳ではない。(現に唐韻は二百六部に分かれてゐたのに、宋韻は僅に一百六部となつてゐる。以て発音の変化の著しきものあるを推知すべきである。)支那人ですらさうであるから、現代の日本人が唐詩の平仄や押韻やその他の事を細々と取調べ、出来るだけ唐詩に近いものを作らうとし、漢詩を作るならば唐詩を作らねばならぬと云ふ風に苦心するのは、(森槐南の如きは、かうした考を堅持して居たやうであるが、)一種の懐古趣味として以外に、そんなに意義のあることとは考へられない。
例へば律詩を作るといふ以上、普通の入門書に書いてある程度の、平仄の規則、押韻の規則、対偶の規則を守る位のことは、一応は避けがたきことであらう。しかし更にそれより進んで、例へば韻を踏まない句の最後の字について云へば、それをただ仄字にするだけで満足せず、第一聯ではそれが入声の字であつたから、第二聯では入声以外の上声なり去声なりの字を用ふべきであり、また第三聯は、もし第二聯で上声の字を用ひたとすれば、ぜひ去声の字を用ひねばならぬと云ふ風に、細かく四声の使ひ分けをする所まで立ち入り、唐代の詩人が音律の上に費したであらうやうな様々の苦心を、千載を距てた今日、全く言語を異にする異邦人たる日本人が、一々細かに吟味して、それらをば自分の作る詩の上に出来得るかぎり再現しようなどと努力することは、特別の専門家は別として、普通の人にとつては全く意味のなき徒労であらう。
それどころか、従来漢詩を作る人が誰でも気にして来た平仄の規則なども、場合によつては、無視して差支ないことであらう。それが昭和の日本人の作る漢詩の心得である。かういふ風に私は考へる。
例へば西郷南洲の逸題に、
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幾歴辛酸志始堅 幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し、
丈夫玉碎慚甎全[#「甎全」に白丸傍点] 丈夫玉砕、甎全《センゼン》を慚づ。
吾家遺法人知否 我が家の遺法、人知るや否や、
不爲兒孫買美田 児孫の為めに美田を買はず。
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と云ふのがあり、甎全は瓦全としたいところを、平仄の関係で仄字の瓦を避けたのだが、日本人が日本人に読んで貰ふつもりで書かれたものなら、ここなどは平仄の規則を破つて、吾々の耳に慣れた瓦全を用ふる方がよく、それに玉砕に対して瓦全といふ言葉はあるが、甎全などいふ成語はない筈でもある。
同じく南洲の偶成七絶に、
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大聲呼酒坐高樓 大声酒を呼んで高楼に坐し、
豪氣將呑五大州 豪気将に呑まんとす五大州。
一寸丹心三尺劍 一寸の丹心、三尺の剣、
揮劍[#「揮劍」に白丸傍点]先試佞奸頭 剣を揮つて先づ試みん佞奸の頭。
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と云ふのがあり、之に対し、結句の揮剣は平仄が合はぬから、仄字の剣に代ふるに平字の刀を以てすべし、などと批評してゐる漢詩人があるは、私は甚だ不服である。これを日本読みにする場合、「一寸の丹心三尺の剣、剣を揮つて」と剣が続くからこそ、言葉の勢があるのであり、仮にその点を無視しても、ここは剣字を重ね用ひねば詩にならない。平仄が合つても合はなくても、そんなことを問題にする必要はない。私はさう考へるのである。
ところで、そんな事を云ふのなら、初めから平仄など全然問題にしないがいいではないか、と云ふ人もあらうが、それはそれでもいいのだ。しかし一応平仄を合はせておけば、支那人が棒読みにして見ても、平仄が合つて居ないのより、何程か調子が好くなるであらうから、元来は支那人に読んで貰ふことを主眼としたものではなくとも、一応は平仄の規則を無視しない方がよからう。私はそれ位に考へてゐる。
元来漢字は象形文字で、ローマ字や日本の仮名と全然文字の性格を異にして居り、音を耳に伝へることの外に、文字の形を眼で見て貰ふことを要求してゐる文字なのである。日、月、山、川等の文字を始め、半ば絵になつてゐる場合も少くなく、愁、悲、涙、泪などは、その偏《ヘン》に一々意味が含まれてゐる。で、日本人がこの漢字と絶縁すればともかく、之を日用文字としてゐる限り、紙に書いた場合に漢字の有つ特殊な味、その美しさなどから無感覚になる訳に行かず、従つてまた、微妙な感覚や美しさなどを尊ぶ詩にあつては、仮名混りでなしに漢字ばかり並べて見たいと云ふ要求が起らざるを得ないのである。(象形文字と音符文字と全く性格の異つた両様の文字を混用した日本文は、眼に映じる所が非常にきたない。私はこんなきたない文字は他になからうとさへ思つてゐる。)日本人の漢詩に対する要求の一半はそこから起つてゐる。
私は以上の如く考へてゐるから、専門の漢詩人が見たら、まるで規則はづれで詩になつて居ない、と嗤ふであらうやうなもの、あるひは支那人に見せたなら、調子のひどく拙いものだ、と批評するであらうやうなものを、平気で作つて居るが、しかしそれと同時に、他方では、これを日本読みにする場合の読み方や調子などに、(これは支那人に全く分からぬことである、)頗る重きを置いて居るのである。
眼で見たところは支那人の詩と同じやうに漢字ばかりで出来て居るが、その発音、その読み方は全然日本読みである。かういふのが日本人の作る、日本人の作り得る、また日本人が作つて見て意義のある、日本の漢詩である。それは野口米次郎が作つた英語の詩のやうな、外国の詩ではない。それは支那の詩ではなく、和歌俳句などと同じ範疇に属する日本の詩の一体である。一切はそこを標準としなければならぬ、そこを標準とすることによつて、初めて昭和の日本人が漢詩を作ると云ふことに意義が見出されるのである。
以上は私の我流の見解である。誰もこんなことを言つたのを、今まで見たことがない。しかし私はこの我流に相当の自信を有つてゐる。言ひ足らぬことは、項を改めて更に補足するであらう。
○
小杉放庵の『唐詩及唐詩人』には、次のやうなことが書いてある。
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「友人の話だが、明治の初年支那通の岸田吟香が、あちらで知り会ひの文人達と、日本の詩について話をした折の思ひ付きで、梁川星巌その他日本での有名な詩人の作共の中に、あちらの無名人の作を加へて、わざと作者の名を除いて、試に彼らに見せたところ、みな其の無名人の分を採つた。そこで吟香が、かゝる内容貧弱な詩の何処がよろしいのかと訊ねた。彼等の答は一様に、無名人の分はともかく吟誦に耐へる、星巌等のは成るほど意味は面白からうが、何分下品な調子で賛成できぬと云ふ理由であつた。(中略)韻字平仄は、この吟誦を音楽的ならしむ可く備はつてゐる規則だ。恐らく日本の漢詩人は、本場の作家よりも此の規則をやかましく云つたらうが、原音四声の心得があちらの子供ほどにも行かぬ故、畢竟徒労だ、生れると直ぐに耳についてゐる原音、之は学問では推し切れない、漢字を五字づつ或は七字づつ行列させて、先づ普通の日本人には読みにくき物を作り、次に韻字平仄に骨を折つて、本場のチンプンカンプンに珍重されず、日本読みには無関係、何にもならぬ話。」
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放庵は何にもならぬと云つてゐるが、しかし今の日本では、漢詩作法などいふ入門書が依然として新たに刊行されて居り、詩吟など云ふものも(私はこの詩吟なるものの調子を好んでゐる訳ではないが)相変らず流行してゐる。この事実は、ただ馬鹿げた話だとけなしただけでは説明がつかない。
畢竟、日本読みにする漢詩は、日本の詩であつて、支那の詩ではないのだ。かうした日本の漢詩を、支那人が支那の詩として見た場合、依然として鑑賞に値すれば、これに越したことはないが、しかしさうでないからと云つて、日本読みにするために作られた日本の漢詩は、日本の詩として依然独立の存在価値を保つことを妨げないのである。
○
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をかにきて ほがらかに
なくやうぐひすありしひの
たにまのゆきにまじへたる
こほるなみだはしるひとぞしる
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佐藤春夫のこの詩は、仮名ばかりで書かれてあることによつて其の美しさを増してゐる。少くとも漢字と仮名の混用より生ずる醜さから免れてゐる。和歌を万葉仮名で書く人があるのも、紙に書いた上での斯かる醜さを避けて居るのであり、画家が自分の作品に字を題する場合、仮名混りの文章を嫌ふのも、同じ理由からである。象形文字と音符文字と、全然性格を異にする文字を混用しては、どんなに工夫しても美しくは書けない。文字そのものが混雑して居るからである。漢字と仮名を混用した和歌や俳句が普通には小さな短冊に書かれ、漢詩が大きな画箋紙などに大書されるのと趣を異にしてゐるのは、その関係からである。
支那でのみ書道なるものが発達したのも、象形文字の美しさからである。ローマ字国では字を書いて楽む人はない。
漢字の魅力は、日本人が未だに漢詩を作る原因の一つである。
○
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七年不到楓橋寺 七年到らず楓橋の寺、
客枕依然半夜鐘 客枕依然、半夜の鐘。
風月未須輕感慨 風月未だ軽々しく感慨するを須ゐず、
巴山此去尚千里 巴山|此《ここ》を去る尚ほ千里。
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これは宿楓橋と題する陸放翁の詩だが、私は之を次のやうに訳して見た。
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七年《ななとせ》ぶりに来てみれば
まくらにかよふ楓橋の
むかしながらの寺の鐘
鐘のひびきの悽《かな》しくも
そそぐ泪はをしめかし
身は蜀に入る客にして
巴山はとほし千里の北
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試にこれを人に見せたところ、その人の言ふには、なるほど訳詩は相当の出来栄えだが、しかし原詩を日本読みにした場合の特殊の味は出て居ない、とのことであつた。尤もな話だ。そして之はもちろん私の不才に因るのでもあらうが、しかし日本読みの漢文調または漢詩調より受ける吾々の感覚は、元来独特なもので、これに代はるべき表現は他にないのである。
佐藤春夫の車塵集は五十首に近い漢詩の翻訳から成つてゐるが、その原詩が何れも女子の作品であり、謂はゆる風雲の気少く児女の情多きものであるのは、必ずしも偶然ではない。かうした種類のものは、漢字にたよらない日本語で表現することが、比較的に容易だからである。これと同じ理由で、維新当時の志士がその風雲の気を好んで漢詩に托したのも、やはり偶然ではない。彼等は漢字と漢詩調を借りなければ表現することの出来ない鬱勃たる気概を胸中に抱いて居たのである。近くは乃木大将の「征馬|前《すす》まず人語らず、金州城外斜陽に立つ」の詩にしても、その時の感情はかうした形式以外に適当な表現はなく、支那人が見て感心しようが、感心すまいが、そんなことは最初から少しも問題にならぬのである。
日本人の描く油絵や水絵が、今日では、すでに洋画ではなく、日本画となつてゐると同じやうに、漢詩は既に久しい以前から日本の詩となつてゐる。これは漢字がすでに日本字になつてゐることと関聯するのである。
今日吾々の用ひる漢字の発音は、元と支那から渡来したものに相違はないが、しかし現代の日本人は現代の支那人と全く違つた発音の系統を維持して居り、かかる発音をなすものとしては、日本の漢字は最早や日本だけの国字となつてゐる。そしてかかる日本流の漢字は、長い長い年数の間にすつかり日本人の言語の中に融け込み、深い深い根をおろしてしまつて、今日吾々の言語は、漢字の助けなしには理解され得ないほどのものになつて居るのである。例へば戦車だの飛行機だのと云つても、漢字を当てはめて見なければ意味が通ぜず、英語を嫌つて野球用語のピッチャーを投手、キャッチャ
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