翁の詩だが、私は之を次のやうに訳して見た。

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七年《ななとせ》ぶりに来てみれば
まくらにかよふ楓橋の
むかしながらの寺の鐘
鐘のひびきの悽《かな》しくも
そそぐ泪はをしめかし
身は蜀に入る客にして
巴山はとほし千里の北
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 試にこれを人に見せたところ、その人の言ふには、なるほど訳詩は相当の出来栄えだが、しかし原詩を日本読みにした場合の特殊の味は出て居ない、とのことであつた。尤もな話だ。そして之はもちろん私の不才に因るのでもあらうが、しかし日本読みの漢文調または漢詩調より受ける吾々の感覚は、元来独特なもので、これに代はるべき表現は他にないのである。
 佐藤春夫の車塵集は五十首に近い漢詩の翻訳から成つてゐるが、その原詩が何れも女子の作品であり、謂はゆる風雲の気少く児女の情多きものであるのは、必ずしも偶然ではない。かうした種類のものは、漢字にたよらない日本語で表現することが、比較的に容易だからである。これと同じ理由で、維新当時の志士がその風雲の気を好んで漢詩に托したのも、やはり偶然ではない。彼等は漢字と漢詩調を借りなければ表現することの出来な
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