他になからうとさへ思つてゐる。)日本人の漢詩に対する要求の一半はそこから起つてゐる。
私は以上の如く考へてゐるから、専門の漢詩人が見たら、まるで規則はづれで詩になつて居ない、と嗤ふであらうやうなもの、あるひは支那人に見せたなら、調子のひどく拙いものだ、と批評するであらうやうなものを、平気で作つて居るが、しかしそれと同時に、他方では、これを日本読みにする場合の読み方や調子などに、(これは支那人に全く分からぬことである、)頗る重きを置いて居るのである。
眼で見たところは支那人の詩と同じやうに漢字ばかりで出来て居るが、その発音、その読み方は全然日本読みである。かういふのが日本人の作る、日本人の作り得る、また日本人が作つて見て意義のある、日本の漢詩である。それは野口米次郎が作つた英語の詩のやうな、外国の詩ではない。それは支那の詩ではなく、和歌俳句などと同じ範疇に属する日本の詩の一体である。一切はそこを標準としなければならぬ、そこを標準とすることによつて、初めて昭和の日本人が漢詩を作ると云ふことに意義が見出されるのである。
以上は私の我流の見解である。誰もこんなことを言つたのを、今まで見たことがない。しかし私はこの我流に相当の自信を有つてゐる。言ひ足らぬことは、項を改めて更に補足するであらう。
○
小杉放庵の『唐詩及唐詩人』には、次のやうなことが書いてある。
[#ここから2字下げ]
「友人の話だが、明治の初年支那通の岸田吟香が、あちらで知り会ひの文人達と、日本の詩について話をした折の思ひ付きで、梁川星巌その他日本での有名な詩人の作共の中に、あちらの無名人の作を加へて、わざと作者の名を除いて、試に彼らに見せたところ、みな其の無名人の分を採つた。そこで吟香が、かゝる内容貧弱な詩の何処がよろしいのかと訊ねた。彼等の答は一様に、無名人の分はともかく吟誦に耐へる、星巌等のは成るほど意味は面白からうが、何分下品な調子で賛成できぬと云ふ理由であつた。(中略)韻字平仄は、この吟誦を音楽的ならしむ可く備はつてゐる規則だ。恐らく日本の漢詩人は、本場の作家よりも此の規則をやかましく云つたらうが、原音四声の心得があちらの子供ほどにも行かぬ故、畢竟徒労だ、生れると直ぐに耳についてゐる原音、之は学問では推し切れない、漢字を五字づつ或は七字づつ行列させて、先づ普
前へ
次へ
全22ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
河上 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング