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小院蠶眠春欲老 小院蚕眠りて春老いんとし、
新巣燕乳花如掃 新巣燕乳して花掃けるが如し。
幽夢錦城西 幽かに夢む錦城の西、
海棠如舊時 海棠旧時の如くならん[#「如くならん」に白丸傍点]。
當年眞草草 当年真に草々、
一櫂還呉早 一櫂呉に還ること早く、
題罷惜春詩 惜春の詩を題し罷めば、
鏡中添鬢絲 鏡中鬢糸添ひにしか[#「添ひにしか」に白丸傍点]。
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右は私が試に読んで見たのであるが、この詞は作者が錦城(成都)に居た頃の思ひ出を詠じたものであるから、第四句は「海棠旧時の如し[#「如し」に白丸傍点]」と読んではならず、必ず「旧時の如くならん[#「如くならん」に白丸傍点]」と推量の助動詞を用ふべきであり、また結句は「鏡中鬢糸添ふ[#「添ふ」に白丸傍点]」と現在にせず、「鬢糸添ひにし[#「添ひにし」に白丸傍点]」と過去にしなければならぬ。
○
漢詩を読んで味ふのはいいが、韻字平仄に骨を折り、支那人の真似をして、自分で漢詩を作るのは、詰らぬ話だ、と云つた説が往々にしてある。(今記憶してゐるのでは、いつか日夏耿之助[#「助」に「〔介〕」の注記]がそんな事を書いてゐたし、小杉放庵の『唐詩及唐詩人』にも、そんなことが書いてある。)しかし私は一概に之に賛成しない。現に私自身が、近頃は平仄を調べたり、韻を踏んだりして、漢詩の真似事をしてゐる。私はそれを必ずしも馬鹿々々しい事とは思はない。
何故漢詩の真似事をするのか?(真似事と云ふのは謙遜ではない、その意味は段々に述べる。)
何よりもの理由は、漢字と漢文調とが自分の思想感情を表現するに最も適当する場合があるからだ。しかしそれだけなら仮名混りにしてもよささうなものだが、仮名を混ぜると眼で見た感じが甚だ面白くない。で、どうせ漢字の使用に重きを置くなら、仮名混りにせず漢字ばかりにして見たいといふ要求が生じ、どうせ漢字ばかりにするのなら、一応支那人の試みた漢詩の形態に拠つて見よう、と云ふことになるのである。
しかし一応は漢詩の形態を取つて見ても、吾々は之を棒読みにするのではなく、日本流に読むのだから、音律の関係から支那で発達した色々な作詩上の規則を、一々遵守する必要はない。それが日本の詩として、
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