意した――インスピレーションが離れ去つて行くやうな――表面的な自己に還《かへ》つて行くやうな――何物かの世界から何物でもない世界に這入つて行くやうな――
呼吸が静まるのと正比例して、子供の泣き声はひし/\と彼の胸に徹《こた》へだした。慈愛の懐《ふところ》から思ひも寄らぬ孤独の境界《きやうがい》に投げ出された子供は、力の限り戸を敲《たゝ》いて、女中の名や、家にはゐない親しい人の名まで交《かは》る/″\呼び立てながら、救ひを求めてゐた。その訴への声の中には、人の子の親の胸を劈《つんざ》くやうな何物かが潜んでゐた。妻は始めから今までぢつと我慢してこの声に鞭《むちう》たれてゐたのかと甫《はじ》めて気がついて見ると、彼には妻の仕打ちが如何《いか》にも正当な仕打ちに考へなされた。
それでも彼は動かなかつた。
火のつくやうに子供が地だんだ踏んで泣き叫ぶ間に、寝室では二人の間に又いまはしい沈黙が続いた。
彼はぢつとこらへられるだけこらへて見た。然しかうなると彼の我慢はみじめな程弱いものであつた。一分ごとに彼の胸には重さが十倍百倍千倍と加はつて行つて、五分も経《た》たない中に彼はおめ/\と立ち上
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