で二の句がつげない。彼は芝居で腹を切つた俳優が科白《せりふ》の間にやるやうに、深い呼吸を暫くの間苦しさうについてゐた。
「あまやかしてゐればそれですむんぢやないんだ――」
彼は又気息をついた。彼はまだ何か云ふ積りであつたが総《すべ》てが馬鹿らしいので、そのまゝ口をつぐんでしまつた。而して深い呼吸をせはしく続けてゐた。
外套掛けからは命を搾《しぼ》り出すやうな子供の詫《わ》びる声が聞こえてゐた。彼はもう一度妻を見て、妻が先つきからその声に気を取られてゐると云ふ事に気がついた。苦《にが》い敵愾心《てきがいしん》が又胸につきあげて来た――嫉妬と云ふ言葉ででも現はすべき敵愾心が――
「それでなくてもパヽは怖《こは》いものなんだよ、……それ……に」
パヽだけが折檻《せつかん》をやつては、尚更怖がらせるばかりで、仕舞にはどう始末をしていゝか判らなくなる。男の児は七つ八つになれば、もう腕力では母から独立する。女でも手がける事の出来る間に、しつかり母の強さも感じさせて置かなければ駄目なんだ。それは前から度々云つてる事ではないか。それを一時の愛着に牽《ひ》かされて姑息《こそく》にして置く法はない。是れだけの事を云ふ積りであつたのだけれども、迚《とて》も云へないと気がついて黙つてしまつたのだ。妻は寒い中に端坐して身もふるはさずに子供の声に聞き入つてるらしかつた。
「もう寝ろ」
彼は暫くたつてからこんな乱暴な云ひやうで妻を強ひた。
「出してやらなくても宜《よろ》しいでせうか」
彼の言葉には答へもせずに、妻は平べつたい調子で後ろを向いたまゝかう云つてゐる。その落着き払つたやうな、ちつとも情味の籠《こも》らないやうな、冷静な妻の態度が却《かへ》つて怒りを募らして、彼は妻の眼の前で子供をつるし切りにして見せてやりたい程|荒《すさ》んだ気分になつた。憤怒の小魔が、体の内からともなく外からともなく、彼の眼をはだけ、歯を噛み合はさせ、喉をしめつけ、握つた手に油汗をにじみ出さした。彼は焔に包まれて、宙に浮いてゐるやうな、目まぐるしい心の軽さを覚えて、総ての羈絆《きはん》を絶ち切つて、何処までも羽をのす事が出来るやうにも思つた。彼はその虚無的な気分に浸りたいが為めに、狂言をかいて憤怒の酒に酔ひしれようと勉《つと》めるらしくもあつた。
兎に角彼は心ゆく許《ばか》り激情の弄《もてあそ》ぶまゝに自分の心を弄ばした。生全体の細かい強い震動が、大奏楽の Finale の楽声のやうに、雄々しく狂ほしく互に打ち合つて、もう一歩で回復の出来ない破滅を招くかとも思はれるその境を、彼の心は痛ましくも泣き笑ひをしながら小躍《こをど》りして駈けまはつてゐた。
然しさうかうする中に癇癪《かんしやく》の潮はその頂上を通り越して、やゝ引潮になつて来た。どんな猛烈な事を頭に浮べて見ても、それには前ほどな充実した真実味が漂つてゐなくなつた。考へただけでも厭やな後悔の前兆が心の隅に頭を擡《もた》げ始めた。
「出したけりや出したら好いぢやないか」
この言葉を聞くと妻は釣り込まれて、立上らうとした様子であつたが、思ひ返したらしく又坐り直して始めて彼の方を振りかへりながら、
「でも貴方がお入れになつて私が出してやつたのでは、私がいゝ子にばかりなる訳ですから」
と答へた。それが彼には、彼を怖れて云つた言葉とはどうしても聞こえないで、単に復讐《ふくしう》的な皮肉とのみ響いた。
何が起るか解らないやうな沈黙が暫くの間二人の間に続いた。
その間彼は自分の呼吸が段々静まつて行くのを、何んだか心淋しいやうな気持で注意した――インスピレーションが離れ去つて行くやうな――表面的な自己に還《かへ》つて行くやうな――何物かの世界から何物でもない世界に這入つて行くやうな――
呼吸が静まるのと正比例して、子供の泣き声はひし/\と彼の胸に徹《こた》へだした。慈愛の懐《ふところ》から思ひも寄らぬ孤独の境界《きやうがい》に投げ出された子供は、力の限り戸を敲《たゝ》いて、女中の名や、家にはゐない親しい人の名まで交《かは》る/″\呼び立てながら、救ひを求めてゐた。その訴への声の中には、人の子の親の胸を劈《つんざ》くやうな何物かが潜んでゐた。妻は始めから今までぢつと我慢してこの声に鞭《むちう》たれてゐたのかと甫《はじ》めて気がついて見ると、彼には妻の仕打ちが如何《いか》にも正当な仕打ちに考へなされた。
それでも彼は動かなかつた。
火のつくやうに子供が地だんだ踏んで泣き叫ぶ間に、寝室では二人の間に又いまはしい沈黙が続いた。
彼はぢつとこらへられるだけこらへて見た。然しかうなると彼の我慢はみじめな程弱いものであつた。一分ごとに彼の胸には重さが十倍百倍千倍と加はつて行つて、五分も経《た》たない中に彼はおめ/\と立ち上
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