つた。而して子供を連れ出して来た。
 彼は妻の前に子供をすゑて、
「さ、マヽに悪う御座いましたとあやまりなさい」
 と云ひ渡した。日頃ならばかうなると頑固《ぐわんこ》を云ひ張る質《たち》であるのに、この夜は余程|懲《こ》りたと見えて、子供は泣きじやくりをしながら、なよ[#「なよ」に傍点]/\と頭を下げた。それを見ると突然彼の胸はぎゆつ[#「ぎゆつ」に傍点]と引きしめられるやうになつた。
 冷え切つた小さい寝床の中に子供を臥《ね》かして、彼は小声で半ば嚇《おど》かすやうに半ば教へるやうに、是れからは決して夜中などにやんちや[#「やんちや」に傍点]を云ふものでないと云ひ聞かせた。子供は今までの恐怖になほおびえてゐるやうに、彼の云ふ事などは耳にも入れないで、上の空で彼の胸にすり寄つた。
 後ろを振返つて見ると、妻は横になつて居た。人に泣き顔を見せるのを嫌ひ、又よし泣くのを見せても声などを決して立てた事のない妻が、床の中でどうしてゐるかは彼には略※[#二の字点、1−2−22]《ほゞ》想像が出来た。子供は泣き疲れに疲れ切つて、時々夢でおびえながら程もなく眠りに落ちて了つた。
 彼は石ころのやうにこちん[#「こちん」に傍点]とした体と心とになつて自分の床に帰つた。あたりは死に絶えたやうに静まり返つてしまつた。寝がへりを打つのさへ憚《はゞか》られるやうな静かさになつた。
 彼はさうしたまゝでまんじり[#「まんじり」に傍点]ともせずに思ひふけつた。
 ひそみ切つてはゐるが、妻が心の中で泣きながら口惜しがつてゐるのが彼にはつきり[#「はつきり」に傍点]と感ぜられた。
 かうして稍※[#二の字点、1−2−22]《やゝ》半時間も過ぎたと思ふ頃、かすかに妻の寝息が聞こえ始めた。妻の思ひとちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]になつた彼の思ひはこれでとう/\全くの孤独に取り残された。
 妻と子供とを持つた彼の生活も、たゞ一つの眠りが銘々をこんなにばら/\に引き離してしまふ。彼は何処からともなく押し逼《せま》つて来る氷のやうな淋しさの為めに存分にひしがれてゐた。水色の風呂敷で包んだ電球は部屋の中を陰欝に照らしてゐた。彼は妻の寝息を聞くのがたまらないで、そつちに背を向けて、丸つこく身をかがめて耳もとまで夜着を被つた。憤怒の苦《にが》い後味《あとあぢ》が頭の奥でいつまでも/\彼を虐《しひた》げようとした。
 後悔しない心、それが欲しいのだ。色々と思ひまはした末に茲《こゝ》まで来ると、彼はそこに生き甲斐のない自分を見出だした。敗亡の苦い淋しさが、彼を石の枕でもしてゐるやうに思はせた。彼の心は本当に石ころのやうに冷たく、冷えこむ冬の夜寒の中にこちん[#「こちん」に傍点]としてゐた。
[#地から1字上げ](大正三年四月)



底本:「現代文学大系22 有島武郎集」筑摩書房
   1964(昭和39)年11月25日初版第1刷発行
   1969(昭和44)年3月10日初版第10刷発行
初出:「白樺」
   1914(大正3)年4月
入力:さくらいゆみこ
校正:浅原庸子
2004年2月19日作成
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