、彼はもう寝室の唐戸《からど》を足で蹴明けて廊下に出てゐた。冷たい板敷が彼の熱し切つた足の裏にひやり[#「ひやり」に傍点]と触れるのだけを彼は感じて快く思つた。その外に彼は何事をも意識してゐなかつた。張り切つた残酷な大きな力が、何等の省慮もなく、張り切つた小さな力を抱へてゐた。彼はわなゝく手を暗《やみ》の中に延ばしながら、階子段《はしごだん》の下にある外套掛《ぐわいたうか》けの袋戸《ふくろど》の把手《ハンドル》をさぐつた。子供は腰から下が自由になつたので、思ひきりばた[#「ばた」に傍点]/\と両脚でもがいてゐる。戸が開いた。子供はその音を聞くと狂気の如く彼の頸《くび》にすがり付いた。然し無益だ。彼は蔓《つる》のやうにからみ付くその手足を没義道《もぎだう》にも他愛なく引き放して、いきなり外套と帽子と履物と掃除道具とでごつちや[#「ごつちや」に傍点]になつた真暗な中に子供を放り込んだ。その時の気組《きぐみ》なら彼は殺人罪でも犯し得たであらう。感情の激昂《げきかう》から彼の胸は大波のやうに高低して、喉は笛のやうに鳴るかと思ふ程|燥《かわ》き果て、耳を聾返《つんぼが》へらすばかりな内部の噪音《さうおん》に阻《はゞ》まれて、子供の声などは一語も聞こえはしなかつた。外套のすそ[#「すそ」に傍点]か、箒《はうき》の柄か、それとも子供のかよわい手か、戸をしめる時弱い抵抗をしたのを、彼は見境もなく力まかせに押しつけて、把手《ハンドル》を廻し切つた。
 その時彼は満足を感じた、跳《をど》り上りたい程の満足をその短い瞬間に於て思ふ存分に感じた。而して始めて外界に対して耳が開けた。
 戸を隔てて子供の泣く声は憐れにも痛ましいものであつた。彼と妻とに嘗《な》めるやうにいつくしまれたこの子供は今まで真夜中にかゝるめ[#「め」に傍点]には一度も遇《あ》つた事がなかつたのだ。
 彼は何かに酔ひしれた男のやうに、衣紋《えもん》もしだらなく、ひよろ/\と跚《よろ》けながら寝室に帰つて、疲れ果てて自分の寝床に臥《ふ》し倒れた。そつと頭を動かして妻を見ると、次の子供の枕許《まくらもと》にしよんぼり[#「しよんぼり」に傍点]とあちら向きになつて、頭の毛を乱してうつ向いたまゝ坐つてゐた。
 それを見ると彼の怒りは又乱潮のやうに寄せ返した。
「あなたは子供の育て方を何んだと思つてるんだ」
 気息《いき》がはずん
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