て下さりそうはありませんし、明日《あす》からは、帽子なしで学校にも通《かよ》わなければならないのです。こんな馬鹿げたことがあるものでしょうか。あれほど大事に可愛がってやっていたのに、帽子はどうして僕をこんなに困らせなければいられないのでしょう。僕はなおなお口惜しくなりました。そうしたら、また涙という厄介ものが両方の眼からぽたぽたと流れ出して来ました。
 野原はだんだん暗くなって行きます。どちらを見ても人っ子一人いませんし、人の家《うち》らしい灯《ひ》の光も見えません。どういう風《ふう》にして家に帰れるのか、それさえ分らなくなってしまいました。今までそれは考えてはいないことでした。ひょっとしたら狸《たぬき》が帽子に化けて僕をいじめるのではないかしら。狸が化けるなんて、大うそだと思っていたのですが、その時ばかりはどうもそうらしい気がしてしかたがなくなりはじめました。帽子を売っていた東京の店が狸の巣で、おとうさんがばかされていたんだ。狸が僕を山の中に連れこんで行くために第一におとうさんをばかしたんだ。そういえばあの帽子はあんまり僕の気にいるように出来ていました。僕はだんだん気味が悪くなってそっと帽子を見上げて見ました。そうしたら真黒《まっくろ》なお月様のような帽子が小さく丸まった狸のようにも見えました。そうかと思うとやはり僕の大事な帽子でした。
 その時遠くの方で僕の名前を呼ぶ声が聞こえはじめました。泣くような声もしました。いよいよ狸の親方が来たのかなと思うと、僕は恐ろしさに脊骨がぎゅっと縮み上がりました。
 ふと僕の眼の前に僕のおとうさんとおかあさんとが寝衣《ねまき》のままで、眼を泣きはらしながら、大騒ぎをして僕の名を呼びながら探しものをしていらっしゃいます。それを見ると僕は悲しさと嬉《うれ》しさとが一緒になって、いきなり飛びつこうとしましたが、やはりおとうさんもおかあさんも狸の化けたのではないかと、ふと気が付くと、何んだか薄気味が悪くなって飛びつくのをやめました。そしてよく二人を見ていました。
 おとうさんもおかあさんも僕がついそばにいるのに少しも気がつかないらしく、おかあさんは僕の名を呼びつづけながら、箪笥《たんす》の引出しを一生懸命に尋《たず》ねていらっしゃるし、おとうさんは涙で曇る眼鏡《めがね》を拭《ふ》きながら、本棚の本を片端《かたっぱし》から取り出して見ていらっしゃいます。そうです、そこには家《うち》にある通りの本棚と箪笥とが来ていたのです。僕はいくらそんな所を探したって僕はいるものかと思いながら、暫《しばら》くは見つけられないのをいい事にして黙って見ていました。
「どうもあれがこの本の中にいないはずはないのだがな」
 とやがておとうさんがおかあさんに仰有《おっしゃ》います。
「いいえそんな所にはいません。またこの箪笥の引出しに隠れたなりで、いつの間にか寝込んだに違いありません。月の光が暗いのでちっとも見つかりはしない」
 とおかあさんはいらいらするように泣きながらおとうさんに返事をしていられます。
 やはりそれは本当のおとうさんとおかあさんでした。それに違いありませんでした。あんなに僕のことを思ってくれるおとうさんやおかあさんが外《ほか》にあるはずはないのですもの。僕は急に勇気が出て来て顔中《かおじゅう》がにこにこ笑いになりかけて来ました。「わっ」といって二人を驚《おどろ》かして上げようと思って、いきなり大きな声を出して二人の方に走り寄りました。ところがどうしたことでしょう。僕の体は学校の鉄の扉を何の苦もなく通りぬけたように、おとうさんとおかあさんとを空気のように通りぬけてしまいました。僕は驚いて振り返って見ました。おとうさんとおかあさんとは、そんなことがあったのは少しも知《し》らないように相変らず本棚と箪笥とをいじくっていらっしゃいました。僕はもう一度二人の方に進み寄って、二人に手をかけて見ました。そうしたら、二人ばかりではなく、本棚までも箪笥まで空気と同じように触ることが出来ません。それを知ってか知らないでか、二人は前の通り一生懸命に、泣きながら、しきりと僕の名を呼んで僕を探していらっしゃいます。僕も声を立てました。だんだん大きく声を立てました。
「おとうさん、おかあさん、僕ここにいるんですよ。おとうさん、おかあさん」
 けれども駄目でした。おとうさんもおかあさんも、僕のそこにいることは少しも気付かないで、夢中になって僕のいもしない所を探していらっしゃるんです。僕は情けなくなって本当においおい声を出して泣いてやろうかと思う位でした。
 そうしたら、僕の心にえらい智慧《ちえ》が湧《わ》いて来ました。あの狸帽子が天の所でいたずらをしているので、おとうさんやおかあさんは僕のいるのがお分かりにならないんだ。そうだ、あの帽
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