子に化けている狸おやじを征伐するより外《ほか》はない。そう思いました。で、僕は空中にぶら下がっている帽子を眼がけて飛びついて、それをいじめて白状させてやろうと思いました。僕は高飛びの身構えをしました。
「レデー・オン・ゼ・マーク……ゲッセット……ゴー」
 力一杯|跳《は》ね上がったと思うと、僕の体はどこまでもどこまでも上の方へと登って行きます。面白いように登って行きます。とうとう帽子の所に来ました。僕は力みかえって帽子をうんと掴《つか》みました。帽子が「痛い」といいました。その拍子に帽子が天の釘《くぎ》から外《はず》れでもしたのか僕は帽子を掴んだまま、まっさかさまに下の方へと落ちはじめました。どこまでもどこまでも。もう草原《くさはら》に足がつきそうだと思うのに、そんなこともなく、際限もなく落ちて行きました。だんだんそこいらが明るくなり、神鳴《かみな》りが鳴り、しまいには眼も明けていられないほど、まぶしい火の海の中にはいりこんで行こうとするのです。そこまで落ちたら焼け死ぬ外はありません。帽子が大きな声を立てて、
「助けてくれえ」
 と呶鳴《どな》りました。僕は恐ろしくて唯《ただ》うなりました。
 僕は誰《た》れかに身をゆすぶられました。びっくらして眼を開《あ》いたら夢でした。
 雨戸を半分開けかけたおかあさんが、僕のそばに来ていらっしゃいました。
「あなたどうかおしかえ、大変にうなされて……お寝ぼけさんね、もう学校に行く時間が来ますよ」
 と仰有いました。そんなことはどうでもいい。僕はいきなり枕もとを見ました。そうしたら僕はやはり後生《ごしょう》大事に庇《ひさし》のぴかぴか光る二円八十銭の帽子を右手で握っていました。
 僕は随分うれしくなって、それからにこにことおかあさんの顔を見て笑いました。



底本:「一房の葡萄 他四篇」岩波文庫、岩波書店
   1988(昭和63)年12月16日改版第1刷発行
底本の親本:「一房の葡萄」叢文閣
   1922(大正11)年6月
入力:鈴木厚司
校正:石川友子
2000年4月29日公開
2005年11月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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