僕は夢中になって、そこにあった草履《ぞうり》をひっかけて飛び出しました。そして格子戸を開けて、ひしゃげた帽子を拾おうとしたら、不思議にも格子戸がひとりでに音もなく開《ひら》いて、帽子がひょいと往来《おうらい》の方へ転《ころ》がり出《だし》ました。格子戸のむこうには雨戸が締まっているはずなのに、今夜に限ってそれも開いていました。けれども僕はそんなことを考えてはいられませんでした。帽子がどこかに見えなくならない中《うち》にと思って、慌《あわ》てて僕も格子戸のあきまから駈《か》け出しました。見ると帽子は投げられた円盤《えんばん》のように二、三|間《げん》先きをくるくるとまわって行《ゆ》きます。風も吹いていないのに不思議なことでした。僕は何しろ一生懸命に駈け出して帽子に追いつきました。まあよかったと安心しながら、それを拾おうとすると、帽子は上手《じょうず》に僕の手からぬけ出して、ころころと二、三間先に転がって行くではありませんか。僕は大急ぎで立ち上がってまたあとを追《お》いかけました。そんな風《ふう》にして、帽子は僕につかまりそうになると、二|間《けん》転がり、三間転がりして、どこまでも僕から逃げのびました。
四《よ》つ角《かど》の学校の、道具を売っているおばさんの所まで来ると帽子のやつ、そこに立ち止まって、独楽《こま》のように三、四|遍《へん》横まわりをしたかと思うと、調子をつけるつもりかちょっと飛び上がって、地面に落ちるや否や学校の方を向いて驚くほど早く走りはじめました。見る見る歯医者の家《うち》の前を通り過ぎて、始終僕たちをからかう小僧のいる酒屋の天水桶《てんすいおけ》に飛び乗って、そこでまたきりきり舞いをして桶のむこうに落ちたと思うと、今度は斜《はす》むこうの三|軒長屋《げんながや》の格子窓の中ほどの所を、風に吹きつけられたようにかすめて通って、それからまた往来の上を人通りがないのでいい気になって走ります。僕も帽子の走るとおりを、右に行ったり左に行ったりしながら追いかけました。夜のことだからそこいらは気味の悪いほど暗いのだけれども、帽子だけははっきりとしていて、徽章《きしょう》までちゃんと見えていました。それだのに帽子はどうしてもつかまりません。始めの中《うち》は面白くも思いましたが、その中に口惜《くや》しくなり、腹が立ち、しまいには情けなくなって、泣き出しそうになりました。それでも僕は我慢していました。そして、
「おおい、待ってくれえ」
と声を出してしまいました。人間の言葉が帽子にわかるはずはないとおもいながらも、声を出さずにはいられなくなってしまったのです。そうしたら、どうでしょう、帽子が――その時はもう学校の正門の所まで来ていましたが――急に立ちどまって、こっちを振り向いて、
「やあい、追いつかれるものなら、追いついて見ろ」
といいました。確かに帽子がそういったのです。それを聞くと、僕は「何糞《なにくそ》」と敗《ま》けない気が出て、いきなりその帽子に飛びつこうとしましたら、帽子も僕も一緒になって学校の正門の鉄の扉を何《なん》の苦もなくつき抜けていました。
あっと思うと僕は梅組の教室の中にいました。僕の組は松組なのに、どうして梅組にはいりこんだか分りません。飯本《いいもと》先生が一|銭銅貨《せんどうか》を一枚皆に見せていらっしゃいました。
「これを何枚呑むとお腹《なか》の痛みがなおりますか」
とお聞きになりました。
「一枚呑むとなおります」
とすぐ答えたのはあばれ坊主の栗原《くりはら》です。先生が頭を振られました。
「二枚です」と今度はおとなしい伊藤《いとう》が手を挙げながらいいました。
「よろしい、その通り」
僕は伊藤はやはりよく出来るのだなと感心しました。
おや、僕の帽子はどうしたろうと、今まで先生の手にある銅貨にばかり気を取られていた僕は、不意に気がつくと、大急ぎでそこらを見廻わしました。どこで見失ったか、そこいらに帽子はいませんでした。
僕は慌《あわ》てて教室を飛び出しました。広い野原に来ていました。どっちを見ても短い草ばかり生えた広い野です。真暗《まっくら》に曇った空に僕の帽子が黒い月のように高くぶら下がっています。とても手も何も届きはしません。飛行機に乗って追いかけてもそこまでは行《ゆ》けそうにありません。僕は声も出なくなって恨《うら》めしくそれを見つめながら地《じ》だんだを踏むばかりでした。けれどもいくら地だんだを踏んで睨《にら》みつけても、帽子の方は平気な顔をして、そっぽを向いているばかりです。こっちから何かいいかけても返事もしてやらないぞというような意地悪《いじわる》な顔をしています。おとうさんに、帽子が逃げ出して天に登って真黒《まっくろ》なお月様になりましたといったところが、とても信じ
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