彼れの眼は、知らず識らずその色彩を以て自然を上塗りしてゐたのだ。而して自然には――絵具の色の如く美しくないにしても――色の無限の階段的駢列がある。その駢列の凡てを誇大された絵具によつて表現しようとするのは、それは確かに不可能事を企てようとすることであらねばならぬ。それは謂はゞ一段調子を高くした自然を再現することである。誇大によつてのみ自己の存在自由を確保されてゐる人間に出来得べきことではない。天才たりとも為すなきの境地だ。それ故に画家のその嘆声。

         *

 然るにかの青年は、色彩に敏感ではあつたけれども画家ではなかつた。彼れは色彩に対する誇大性を所有してゐない。謂はゞ彼れは科学的精神の持主であつた。それ故彼れは画家の凡てが陥つてゐる色彩上の自己暗示に襲はれることなしに、自然の色と絵具の色とを比較することが出来た。而してその結果を彼れは平然として報告したのだ。
 それをいふのは単に彼の青年ばかりでない。画家の無意識な偽瞞に煩はされないで、素朴に色彩を感ずる俗人は、新鮮な自然の花を見た場合に、嘆じていふ「おゝこの野の花は画の花の如く美しい」と。

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