に誇大せられた表現に親しみ慣れる。而してその表現が自然の再現であるかの如く感じ始められる。かくて巧妙なる画の花は自然の花の如く美しく鑑賞されるに至るのだ。
この時に当つて画家はいふ「自然の美は極まりない。その美を悉く現はすことは人間に取つて、天才に取つてさへ不可能である」と。いふ心は、私達が普通に考へてゐるそのやうにあるのではないのだ。その画家の言葉を聞いた私達は恐らくかう考へてはゐないか。自然の有する色彩は、如何に精緻に製造された絵具の中にも発見され得ない。又その絵具の如何なる配列の中にも発見され得ない。又如何なる天才の徹視の下にも端倪され得ない。それだから自然の持つ色彩は、常に絵画の持つ色彩よりも極りなく麗はしいと。
私は考へる。その言葉を吐いた画家自身はさう考へていつたのではないにしても、私はかう考へる。画家のその言葉は普通に考へられてゐる、前のやうな意味に於てゞはなくいはれたのだ。自然の美は極りないといつた時、画家は既に誇大して眺められた自然について云つてゐるのだ。彼れの言葉の以前に、画家の誇大された色感が既に自然に投入されてゐたのだ。誇大された絵具の色彩によつて義眼された彼れの眼は、知らず識らずその色彩を以て自然を上塗りしてゐたのだ。而して自然には――絵具の色の如く美しくないにしても――色の無限の階段的駢列がある。その駢列の凡てを誇大された絵具によつて表現しようとするのは、それは確かに不可能事を企てようとすることであらねばならぬ。それは謂はゞ一段調子を高くした自然を再現することである。誇大によつてのみ自己の存在自由を確保されてゐる人間に出来得べきことではない。天才たりとも為すなきの境地だ。それ故に画家のその嘆声。
*
然るにかの青年は、色彩に敏感ではあつたけれども画家ではなかつた。彼れは色彩に対する誇大性を所有してゐない。謂はゞ彼れは科学的精神の持主であつた。それ故彼れは画家の凡てが陥つてゐる色彩上の自己暗示に襲はれることなしに、自然の色と絵具の色とを比較することが出来た。而してその結果を彼れは平然として報告したのだ。
それをいふのは単に彼の青年ばかりでない。画家の無意識な偽瞞に煩はされないで、素朴に色彩を感ずる俗人は、新鮮な自然の花を見た場合に、嘆じていふ「おゝこの野の花は画の花の如く美しい」と。
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