。私の顔が見えると妹は後《うしろ》の方からあらん限りの声をしぼって
「兄さん来てよ……もう沈む……苦しい」
 と呼びかけるのです。実際妹は鼻の所位《ところぐらい》まで水に沈みながら声を出そうとするのですから、その度ごとに水を呑《の》むと見えて真蒼《まっさお》な苦しそうな顔をして私を睨《にら》みつけるように見えます。私も前に泳ぎながら心は後《うしろ》にばかり引かれました。幾度《いくど》も妹のいる方へ泳いで行《い》こうかと思いました。けれども私は悪い人間だったと見えて、こうなると自分の命が助かりたかったのです。妹の所へ行《ゆ》けば、二人とも一緒に沖に流されて命がないのは知れ切っていました。私はそれが恐ろしかったのです。何しろ早く岸について漁夫《りょうし》にでも助けに行ってもらう外《ほか》はないと思いました。今から思うとそれはずるい考えだったようです。
 でもとにかくそう思うと私はもう後《うしろ》も向かずに無我夢中で岸の方を向いて泳ぎ出しました。力が無くなりそうになると仰向《あおむけ》に水の上に臥《ね》て暫《しば》らく気息《いき》をつきました。それでも岸は少しずつ近づいて来るようでした。一生
前へ 次へ
全16ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング