。霊、肉と呼んだ人もある。趣味、主義と呼んだ人もある。理想、現実と呼んだ人もある。空、色と呼んだ人もある。このごときを数え上げることの愚かさは、針頭の立ちうる天使の数を数えんとした愚かさにも勝《まさ》った愚かさであろう。いかなるよき名を用いるとも、この二つの道の内容を言い尽くすことはできまい。二つの道は二つの道である。人が思考する瞬間、行為する瞬間に、立ち現われた明確な現象で、人力をもってしてはとうてい無視することのできない、深奥な残酷な実在である。
七
我らはしばしば悲壮な努力に眼を張って驚嘆する。それは二つの道のうち一つだけを選み取って、傍目《わきめ》もふらず進み行く人の努力である。かの赤き道を胸張りひろげて走る人、またかの青き道をたじろぎもせず歩む人。それをながめている人の心は、勇ましい者に障《さわ》られた時のごとく、堅く厳しく引きしめられて、感激の涙が涙堂に溢れてくる。
いわゆる中庸という迷信に付随しているような沈滞は、このごとき人の行く手にはさらに起こらない。その人が死んで倒れるまで、その前には炎々として焔が燃えている。心の奥底には一つの声が歌となるまでに漲《みなぎ》り流れている。すべての疲れたる者はその人を見て再びその弱い足の上に立ち上がる。
八
さりながらその人がちょっとでも他の道を顧みる時、その人はロトの妻のごとく塩の柱となってしまう。
九
さりながらまたその人がどこまでも一つの道を進む時、その人は人でなくなる。釈迦《しゃか》は如来《にょらい》になられた。清姫は蛇になった。
一〇
一つの道を行く人が他の道に出遇うことがある。無数にある交叉点の一つにぶつかることがある。その時そこに安住の地を求めて、前にも後ろにも動くまいと身構える向きもあるようだ。その向きの人は自分の努力に何の価値をも認めていぬ人と言わねばならぬ。余力があってそれを用いぬのは努力ではないからである。その人の過去はその人が足を停めた時に消えてなくなる。
一一
このディレンマを破らんがために、野に叫ぶ人の声が現われた。一つの声は道のみを残して人は滅びよと言った。あまりに意地悪き二つの道に対する面当《つらあ》てである。一つの声は二つの道を踏み破ってさらに他の知らざる道に入れと言った。一種の夢想である。一つの声は一つの道を行くも、他の道を行くも、その到達点にして同一であらばかまわぬではないかと言った。短い一生の中にもすべてを知り、すべてたらんとする人間の欲念を、全然無視した叫びである。一つの声は二つの道のうち一つの道は悪であって、人の踏むべき道ではない、悪魔の踏むべき道だと言った。これは力ある声である。が一つの道のみを歩む人がついに人でなくなることは前にも言ったとおりである。
一二
今でもハムレットが深厚な同情をもって読まれるのは、ハムレットがこのディレンマの上に立って迷いぬいたからである。人生に対して最も聡明《そうめい》な誠実な態度をとったからである。雲のごとき智者と賢者と聖者と神人とを産み出した歴史のまっただ中に、従容《しょうよう》として動くことなきハムレットを仰ぐ時、人生の崇高と悲壮とは、深く胸にしみ渡るではないか。昔キリストは姦淫《かんいん》を犯せる少女を石にて搏《う》たんとしたパリサイ人に対し、汝らのうち罪なき者まず彼女を石にて搏つべしと言ったことがある。汝らのうち、心|尤《とが》めされぬ者まずハムレットを石にて搏つべしと言ったらばはたして誰が石を取って手を挙《あ》げうるであろう。一つの道を踏みかけては他の道に立ち帰り、他の道に足を踏み入れてなお初めの道を顧み、心の中に悶《もだ》え苦しむ人はもとよりのこと、一つの道をのみ追うて走る人でも、思い設けざるこの時かの時、眉目《びもく》の涼しい、額の青白い、夜のごとき喪服を着たデンマークの公子と面を会わせて、空恐ろしいなつかしさを感ずるではないか。
いかなる人がいかに言うとも、悲劇が人の同情を牽《ひ》くかぎり、二つの道は解決を見いだされずに残っているといわねばならぬ。
その思想と伎倆《ぎりょう》の最も円熟した時、後代に捧ぐべき代表的傑作として、ハムレットを捕えたシェクスピアは、人の心の裏表《うらおもて》を見知る詩人としての資格を立派に成就した人である。
一三
ハムレットには理智を通じて二つの道に対する迷いが現われている。未だ人全体すなわちテムペラメントその者が動いてはいない。この点においてヘダ・ガブラーは確かに非常な興味をもって迎えられるべき者であろう。
一四
ハムレットであるうちはいい。ヘダになるのは実に厭《いや》だ。厭でもしかたがない。智慧《ちえ》の実を味わい終わった人であってみれば、人として最上の
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