二つの道
有島武郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)揺籃《ようらん》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)心|尤《とが》めされぬ者
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   一

 二つの道がある。一つは赤く、一つは青い。すべての人がいろいろの仕方でその上を歩いている。ある者は赤い方をまっしぐらに走っているし、ある者は青い方をおもむろに進んで行くし、またある者は二つの道に両股をかけて欲張った歩き方をしているし、さらにある者は一つの道の分かれ目に立って、凝然として行く手を見守っている。揺籃《ようらん》の前で道は二つに分かれ、それが松葉つなぎのように入れ違って、しまいに墓場で絶えている。

   二

 人の世のすべての迷いはこの二つの道がさせる業《わざ》である、人は一生のうちにいつかこのことに気がついて、驚いてその道を一つにすべき術《すべ》を考えた。哲学者と言うな、すべての人がそのことを考えたのだ。みずから得たとして他を笑った喜劇も、己《おの》れの非を見いでて人の危きに泣く悲劇も、思えば世のあらゆる顕《あら》われは、人がこの一事を考えつめた結果にすぎまい。

   三

 松葉つなぎの松葉は、一つなぎずつに大きなものになっていく。最初の分岐点から最初の交叉《こうさ》点までの二つの道は離れ合いかたも近く、程も短い。その次のはやや長い。それがだんだんと先に行くに従って道と道とは相失うほどの間隔となり、分岐点に立って見渡すとも、交叉点のありやなしやが危まれる遠さとなる。初めのうちは青い道を行ってもすぐ赤い道に衝当《つきあ》たるし、赤い道を辿《たど》っても青い道に出遇《であ》うし、欲張って踏み跨《また》がって二つの道を行くこともできる。しかしながら行けども行けども他の道に出遇いかねる淋しさや、己れの道のいずれであるべきかを定めあぐむ悲しさが、おいおいと増してきて、軌道の発見せられていない彗星《すいせい》の行方《ゆくえ》のような己れの行路に慟哭《どうこく》する迷いの深みに落ちていくのである。

   四

 二つの道は人の歩むに任せてある。右を行くも左を行くもともに人の心のままである。ままであるならば人は右のみを歩いて満足してはいない。また左のみを辿って平然としていることはできない。この二つの道を行き尽くしてこそ充実した人生は味わわれるのではないか。ところがこの二つの道に踏み跨がって、その終わるところまで行き尽くした人がはたしてあるだろうか。

   五

 人は相対界に彷徨《ほうこう》する動物である。絶対の境界は失われた楽園である。
 人が一事を思うその瞬時にアンチセシスが起こる。
 それでどうして二つの道を一条に歩んで行くことができようぞ。
 ある者は中庸ということを言った。多くの人はこれをもって二つの道を一つの道になしえた努力だと思っている。おめでたいことであるが、誠はそうではない。中庸というものは二つの道以下のものであるかもしれないが、少なくとも二つの道以上のものではない。詭弁《きべん》である、虚偽である、夢想である。世を済《すく》う術数である。
 人を救う道ではない。
 中庸の徳が説かれる所には、その背後に必ず一つの低級な目的が隠されている。それは群集の平和ということである。二つの道をいかにすべきかを究《きわ》めあぐんだ時、人はたまりかねて解決以外の解決に走る。なんでもいいから気の落ち付く方法を作りたい。人と人とが互いに不安の眼を張って顔を合わせたくない。長閑《のどか》な日和《ひより》だと祝し合いたい。そこで一つの迷信に満足せねばならなくなる。それは、人生には確かに二つの道はあるが、しようによってはその二つをこね合わせて一つにすることができるという迷信である。
 すべての迷信は信仰以上に執着性を有するものであるとおり、この迷信も群集心理の機微に触れている。すべての時代を通じて、人はこの迷信によってわずかに二つの道というディレンマを忘れることができた。そして人の世は無事泰平で今日までも続き来たった。
 しかし迷信はどこまでも迷信の暗黒面を腰にさげている。中庸というものが群集の全部に行き渡るやいなや、人の努力は影を潜めて、行く手に輝く希望の光は鈍ってくる。そして鉛色の野の果てからは、腐肥をあさる卑しい鳥の羽音が聞こえてくる。この時人が精力を搾《しぼ》って忘れようと勉《つと》めた二つの道は、まざまざと眼前に現われて、救いの道はただこの二つぞと、悪夢のごとく強く重く人の胸を圧するのである。

   六

 人はいろいろな名によってこの二つの道を呼んでいる。アポロ、ディオニソスと呼んだ人もある。ヘレニズム、ヘブライズムと呼んだ人もある。Hard−headed, Tender−hearted と呼んだ人もある
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