しに父の座敷へと帰って行った。そこはもうすっかりかたづけられていて、矢部を正座に、父と監督とが鼎座《かなえざ》になって彼の来るのを待っていた。彼は押し黙ったまま自分の座についたが、部屋にはいるとともに感ぜずにはいられなかったのは、そこにただよっているなんともいえぬ気まずい空気だった。さきほどまで少しも物にこだわらないで、自由に話の舵《かじ》を引いていた矢部がいちばん小むずかしい顔になっていた。彼の来るのを待って箸《はし》を取らないのだと思ったのは間違いらしかった。
矢部は彼が部屋にはいって来るのを見ると、よけい顔色を険《けわ》しくした。そしてとうとうたまりかねたようにその眇眼《すがめ》で父をにらむようにしながら、
「せっかくのおすすめではございますが、私は矢張り御馳走にはならずに発《た》って札幌《さっぽろ》に帰るといたします。なに、あなた一晩先に帰っていませば一晩だけよけい仕事ができるというものでございますから……私は御覧のとおりの青造《あおぞう》ではございますが、幼少から商売のほうではずいぶんたたきつけられたもんで……しかし今夜ほどあらぬお疑いを被って男を下げたことは前後にございますまいよ。とにかく商売だって商売道と申します。不束《ふつつか》ながらそれだけの道は尽くしたつもりでございますが、それを信じていただけなければお話には継《つ》ぎ穂の出ようがありませんです。……じゃ早田君、君のことは十分申し上げておいたから、これからこちらの人になって一つ堅固にやってあげてくださいまし。……私はこれで失礼いたします」
とはきはき言って退《の》けた。彼にはこれは実に意外の言葉だった。父は黙ってまじまじと癇癪玉《かんしゃくだま》を一時に敲《たた》きつけたような言葉を聞いていたが、父にしては存外穏やかななだめるような調子になっていた。
「なにも俺《わ》しはそれほどあなたに信用を置かんというのではないのですが、事務はどこまでも事務なのだから明らかにしておかなければ私の気が済まんのです。時刻も遅いからお泊りなさい今夜は」
「ありがとうございますが帰らせていただきます」
「そうですか、それではやむを得ないが、では御相談のほうは今までのお話どおりでよいのですな」
「御念には及びません。よいようにお取り計らいくださればそれでもう結構でございます」
矢部はこのうえ口をきくのもいやだという風で挨拶一つすると立ち上がった。彼と監督とは事務所のほうまで矢部を送って出たが、監督が急がしく靴をはこうとしているのを見ると、矢部は押しかえすような手つきをして、
「早田君、君が送ってくれては困る。荷物は誰かに運ばせてください。それでなくてさえ且那はお互いの間を妙にからんで疑っておいでになるのだ。しかし君のことはよくお話ししておいたから……万事が落着するまでは君は私から遠退《とおの》いているようにしてくれたまえ。送って来ちゃいけませんよ」
それから矢部は彼の方に何か言いかけようとしたが、彼に対してさえ不快を感じたらしく、監督の方に向いて、
「六年間|只奉公《ただぼうこう》してあげくの果《は》てに痛くもない腹を探られたのは全くお初《は》つだよ。私も今夜という今夜は、慾もへちまもなく腹を立てちゃった。じゃこちらがすっかりかたずいたうえで、札幌にも出ておいでなさい。その節万事私のほうのかたはつけますから。御免」
「御免」という挨拶だけを彼に残して、矢部は星だけがきらきら輝いた真暗なおもてへ駈《か》け出すように出て行ってしまった。彼はそこに立ったまま、こんな結果になった前後の事情を想像しながら遠ざかってゆく靴音を聞き送っていた。
その晩父は、東京を発《た》った時以来何処に忘れて来たかと思うような笑い顔を取りもどして晩酌を傾けた。そこに行くとあまり融通のきかない監督では物足らない風で、彼を対手《あいて》に話を拡げて行こうとしたが、彼は父に対する胸いっぱいの反感で見向きもしたくなかった。それでも父は気に障《さ》えなかった。そしてしかたなしに監督に向きなおって、その父に当たる人の在世当時の思い出話などをして一人|興《きょう》がった。
「元気のいい老人だったよ、どうも。酔うといつでも大肌《おおはだ》ぬぎになって、すわったままひとり角力《ずもう》を取って見せたものだったが、どうした癖か、唇を締めておいて、ぷっぷっと唾《つばき》を霧のように吹き出すのには閉口した」
そんなことをおおげさに言いだして父は高笑いをした。監督も懐旧の情を催すらしく、人のいい微笑を口のはたに浮かべて、
「ほんとにそうでした」
と気のなさそうな合槌《あいづち》を打っていた。
そのうちに夜はいいかげん更《ふ》けてしまった。監督が膳を引いてしまうと、気まずい二人が残った。しかし父のほうは少しも気まずそうには見えなかった。矢部の前で、十一、二の子供でも叱《しか》りつけるような小言を言ったことなどもからっと忘れてしまっているようだった。
「うまいことに行った。矢部という男はかねてからなかなか手ごわい悧巧者《りこうもの》だとにらんでいたから、俺《わ》しは今日の策戦には人知れぬ苦労をした。そのかいあって、先方がとうとう腹を立ててしまったのだ。掛引きで腹を立てたら立てたほうが敗け勝負だよ。貸し越しもあったので実はよけい心配もしたのだが、そんなものを全部差し引くことにして報酬共に五千円で農場全部がこちらのものになったのだ。これでこの農場の仕事は成功に終わったといっていいわけだ」
「私には少しも成功とは思えませんが……」
これだけを言うのにも彼の声は震えていた。しかし日ごろの沈黙に似ず、彼は今夜だけは思う存分に言ってしまわなければ、胸に物がつまっていて、当分は寝ることもできないような暴《あば》れた気持ちになってしまっていたのだ。
「今日農場内を歩いてみると、開墾のはじめにあなたとここに来ましたね、あの時と百姓の暮らし向きは同じなのに私は驚きました。小作料を徴収したり、成墾費が安く上がったりしたことには成功したかもしれませんが、農場としてはいったいどこが成功しているんでしょう」
「そんなことを言ったってお前、水呑百姓《みずのみひゃくしょう》といえばいつの世にでも似たり寄ったりの生活をしているものだ。それが金持ちになったら汗水垂らして畑をするものなどは一人もいなくなるだろう」
「それにしてもあれはあんまりひどすぎます」
「お前は百歩をもって五十歩を笑っとるんだ」
「しかし北海道にだって小作人に対してずっといい分割りを与えているところはたくさんありますよ」
「それはあったとしたら帳簿を調べてみるがいい、きっと損をしているから」
「農民をあんな惨《みじ》めな状態におかなければ利益のないものなら、農場という仕事はうそですね」
「お前は全体本当のことがこの世の中にあるとでも思っとるのか」
父は息子の融通のきかないのにも呆《あき》れるというようにそっぽを向いてしまった。
「思ってはいませんがね。しかし私にはどうしても現在のようにうそばかりで固めた生活ではやり切れません。矢部という人に対してのあなたの態度なども、お考えになったらあなたもおいやでしょう。まるでぺてんですものね。始めから先方に腹を立てさすつもりで談判をするなどというのは、馬鹿馬鹿しいくらい私にはいやな気持ちです」
彼は思い切ってここまで突っ込んだ。
「お前はいやな気持ちか」
「いやな気持ちです」
「俺《わ》しはいい気持ちだ」
父は見下だすように彼を見やりながら、おもむろに眼鏡をはずすと、両手で顔を逆《さか》なでになで上げた。彼は憤激ではち切れそうになった。
「私はあなたをそんなかただとは思っていませんでしたよ」
突然、父は心の底から本当の怒りを催したらしかった。
「お前は親に対してそんな口をきいていいと思っとるのか」
「どこが悪いのです」
「お前のような薄ぼんやりにはわかるまいさ」
二人の言葉はぎこちなく途切れてしまった。彼は堅い決心をしていた。今夜こそは徹底的に父と自分との間の黒白をつけるまでは夜明かしでもしよう。父はややしばらく自分の怒りをもて余しているらしかったが、やがて強いてそれを押さえながら、ぴちりぴちりと句点でも切るように話し始めた。
「いいか。よく聞いていて考えてみろ。矢部は商人なのだぞ。商売というものはな、どこかで嘘《うそ》をしなければ成り立たん性質のものなのだ。昔から士農工商というが、あれは誠と嘘との使いわけの程度によって、順序を立てたので、仕事の性質がそうなっているのだ。ちょっと見るとなんでもないようだが、古人の考えにはおろそかでないところがあるだろう。俺《わ》しは今日その商人を相手にしたのだから、先方の得手に乗せられては、みすみす自分で自分を馬鹿者にしていることになるのだ。といってからに俺《わ》しには商人のような嘘はできないのだから、無理押しにでも矢部の得手を封ずるほかはないではないか」
彼はそんな手にはかかるものかと思った。
「そんならある意味で小作人をあざむいて利益を壟断《ろうだん》している地主というものはあれはどの階級に属するのでしょう」
「こう言えばああ言うそのお前の癖は悪い癖だぞ。物はもっと考えてから言うがいい。土地を貸し付けてその地代を取るのが何がいつわりだ」
「そう言えば商人だっていくぶん人の便利を計って利益を取っているんですね」
理につまったのか、怒りに堪えなかったのか、父は押し黙ってしまった。禿《は》げ上がった額の生え際《ぎわ》まで充血して、手あたりしだいに巻煙草を摘《つま》み上げて囲炉裡《いろり》の火に持ってゆくその手は激しく震えていた。彼は父がこれほど怒ったのを見たことがなかった。父は煙草をそこまで持ってゆくと、急に思いかえして、そのまま畳の上に投げ捨ててしまった。
ややしばらくしてから父はきわめて落ち着いた物腰でさとすように、
「それほど父に向かって理屈が言いたければ、立派に一人前の仕事をして、立派に一人前の生活ができたうえで言うがいい。何一つようし得ないで物を言ってみたところが、それは得手勝手というものだぞ……聞いていればお前はさっきから俺《わ》しのすることを嘘だ嘘だと言いののしっとるが、お前は本当のことを何処《どこ》でしたことがあるかい。人と生まれた以上、こういう娑婆《しゃば》にいればいやでも嘘をせにゃならんのは人間の約束事なのだ。嘘の中でもできるだけ嘘をせんようにと心がけるのが徳というものなのだ。それともお前は俺《わ》しの眼の前に嘘をせんでいい世の中を作ってみせてくれるか。そしたら俺《わ》しもお前に未練なく兜《かぶと》を脱ぐがな」
父のこの言葉ははっしと彼の心の真唯中《まっただなか》を割って過ぎた。実際彼は刃のようなひやっとしたものを肉体のどこかに感じたように思った。そして凝り上がるほど肩をそびやかして興奮していた自分を後《うし》ろめたく見いだした。父はさらに言葉を続けた。
「こんな小さな農場一つをこれだけにするのにも俺《わ》しがどれほど苦心をしたかお前は現在見ていたはずだ。いらざる取り越し苦労ばかりすると思うかもしれんが、あれほどの用意をしても世の中の事は水が漏れたがるものでな。そこはお前のような理屈一|遍《ぺん》ではとてもわかるまいが」
なるほどそれは彼にとっては手痛い刃だ。そこまで押しつめられると、今までの彼は何事も言い得ずに黙ってしまっていた。しかし今夜こそはそこを突きぬけよう。そして父に彼の本質をしっかり知ってもらおうと心を定めた。
「わからないかもしれません。実際あなたが東京を発《た》つ前からこの事ばかり思いつめていらっしゃるのを見ていると、失礼ながらお気の毒にさえ感じたほどでした。……私は全くそうした理想屋です。夢ばかり見ているような人間です。……けれども私の気持ちもどうか考えてください。私はこれまで何一つしでかしてはいません。自体何をすればいいのか、それさえ見きわめがついていないような次第です。ひょっとすると生涯こうして考えているばかりで暮らすのかもしれないんですが、
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