親子
有島武郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)輪廓《りんかく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|抱《かか》え

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+徙」、173−12]
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 彼は、秋になり切った空の様子をガラス窓越しに眺めていた。
 みずみずしくふくらみ、はっきりした輪廓《りんかく》を描いて白く光るあの夏の雲の姿はもう見られなかった。薄濁った形のくずれたのが、狂うようにささくれだって、澄み切った青空のここかしこに屯《たむろ》していた。年の老いつつあるのが明らかに思い知られた。彼はさきほどから長い間ぼんやりとそのさまを眺めていたのだ。
「もう着くぞ」
 父はすぐそばでこう言った。銀行から歳暮によこす皮表紙の懐中手帳に、細手の鉛筆に舌の先の湿りをくれては、丹念に何か書きこんでいた。スコッチの旅行服の襟《えり》が首から離れるほど胸を落として、一心不乱に考えごとをしながらも、気ぜわしなくこんな注意をするような父だった。
 停車場には農場の監督と、五、六人の年嵩《としかさ》な小作人とが出迎えていた。彼らはいずれも、古手拭と煙草《たばこ》道具と背負い繩《なわ》とを腰にぶら下げていた。短い日が存分西に廻って、彼の周囲には、荒くれた北海道の山の中の匂いだけがただよっていた。
 監督を先頭に、父から彼、彼から小作人たちが一列になって、鉄道線路を黙りながら歩いてゆくのだったが、横幅のかった丈けの低い父の歩みが存外しっかりしているのを、彼は珍しいもののように後から眺めた。
 物の枯れてゆく香《にお》いが空気の底に澱《よど》んで、立木の高みまではい上がっている「つたうるし」の紅葉が黒々と見えるほどに光が薄れていた。シリベシ川の川瀬の昔に揺られて、いたどりの広葉が風もないのに、かさこそと草の中に落ちた。
 五、六丁線路を伝って、ちょっとした切崕《きりざし》を上がるとそこは農場の構えの中になっていた。まだ収穫を終わらない大豆畑すらも、枯れた株だけが立ち続いていた。斑《まだ》ら生《ば》えのしたかたくなな雑草の見える場所を除いては、紫色に黒ずんで一面に地膚をさらけていた。そして一か所、作物の殻を焼く煙が重く立ち昇り、ここかしこには暗い影になって一人二人の農夫がまだ働き続けていた。彼は小作小屋の前を通るごとに、気をつけて中をのぞいて見た。何処《どこ》の小屋にも灯はともされずに、鍋の下の囲炉裡火《いろりび》だけが、言葉どおりかすかに赤く燃えていた。そのまわりには必ず二、三人の子供が騒ぎもしないできょとんと火を見つめながら車座にうずくまっていた。そういう小屋が、草を積み重ねたように離れ離れにわびしく立っていた。
 農場の事務所に達するには、およそ一丁ほどの嶮《けわ》しい赤土の坂を登らなければならない。ちょうど七十二になる彼の父はそこにかかるとさすがに息切れがしたとみえて、六合目ほどで足をとどめて後をふり返った。傍見《わきみ》もせずに足にまかせてそのあとに※[#「足へん+徙」、173−12]《つ》いて行った彼は、あやうく父の胸に自分の顔をぶつけそうになった。父は苦々しげに彼を尻目にかけた。負けじ魂の老人だけに、自分の体力の衰えに神経をいら立たせていた瞬間だったのに相違ない。しかも自分とはあまりにかけ離れたことばかり考えているらしい息子の、軽率な不作法が癪《しゃく》にさわったのだ。
「おい早田」
 老人は今は眼の下に見わたされる自分の領地の一区域を眺めまわしながら、見向きもせずに監督の名を呼んだ。
「ここには何戸はいっているのか」
「崕地《がけち》に残してある防風林のまばらになったのは盗伐ではないか」
「鉄道と換え地をしたのはどの辺にあたるのか」
「藤田の小屋はどれか」
「ここにいる者たちは小作料を完全に納めているか」
「ここから上る小作料がどれほどになるか」
 こう矢継ぎ早やに尋ねられるに対して、若い監督の早田は、格別のお世辞気もなく穏やかな調子で答えていたが、言葉が少し脇道にそれると、すぐ父からきめつけられた。父は監督の言葉の末にも、曖昧《あいまい》があったら突っ込もうとするように見えた。白い歯は見せないぞという気持ちが、世故に慣れて引き締まった小さな顔に気味悪いほど動いていた。
 彼にはそうした父の態度が理解できた。農場は父のものだが、開墾は全部矢部という土木業者に請負わしてあるので、早田はいわば矢部の手で入れた監督に当たるのだ。そして今年になって、農場がようやく成墾したので、明日は矢部もこの農場に出向いて来て、すっかり精算をしようというわけになっているのだ。明日の授受が済むまでは、縦令《たとえ》永年見慣れて来た早田でも、事業のうえ、競争者の手先と思わなければならぬという意識が、父の胸にはわだかまっているのだ。いわば公私の区別とでもいうものをこれほど露骨にさらけ出して見せる父の気持ちを、彼はなぜか不快に思いながらも驚嘆せずにはいられなかった。
 一行はまた歩きだした。それからは坂道はいくらもなくって、すぐに広々とした台地に出た。そこからずっとマッカリヌプリという山の麓《ふもと》にかけて農場は拡がっているのだ。なだらかに高低のある畑地の向こうにマッカリヌプリの規則正しい山の姿が寒々と一つ聳《そび》えて、その頂きに近い西の面だけが、かすかに日の光を照りかえして赤ずんでいた。いつの間にか雲一ひらもなく澄みわたった空の高みに、細々とした新月が、置き忘れられた光のように冴《さ》えていた。一同は言葉少なになって急ぎ足に歩いた。基線道路と名づけられた場内の公道だったけれども畦道《あぜみち》をやや広くしたくらいのもので、畑から抛《ほう》り出された石ころの間なぞに、酸漿《ほうずき》の実が赤くなってぶら下がったり、轍《わだち》にかけられた蕗《ふき》の葉がどす黒く破れて泥にまみれたりしていた。彼は野生になったティモシーの茎を抜き取って、その根もとのやわらかい甘味を噛《か》みしめなどしながら父のあとに続いた。そして彼の後ろから来る小作人たちのささやきのような会話に耳を傾けた。
「夏作があんなだに、秋作がこれじゃ困ったもんだ」
「不作つづきだからやりきれないよ全く」
「そうだ」
 ぼそぼそとしたひとりごとのような声だったけれども、それは明らかに彼の注意を引くように目論《もくろ》まれているのだと彼は知った。それらの言葉は父に向けてはうっかり言えない言葉に違いない。しかし彼ならばそれを耳にはさんで黙っているだろうし、そしてそれが結局小作人らにとって不為めにはならないのを小作人たちは知りぬいているらしかった。彼には父の態度と同様、小作人たちのこうした態度も快くなかった。東京を発《た》つ時からなんとなくいらいらしていた心の底が、いよいよはっきり焦《い》らつくのを彼は感じた。そして彼はすべてのことを思うままにぶちまけることのできない自分をその時も歯痒《はが》ゆく思った。
 事務所にはもう赤々とランプがともされていて、監督の母親や内儀《おかみ》さんが戸の外に走り出て彼らを出迎えた。土下座せんばかりの母親の挨拶などに対しても、父は監督に対すると同時に厳格な態度を見せて、やおら靴を脱ぎ捨てると、自分の設計で建て上げた座敷にとおって、洋服のままきちんと囲炉裡《いろり》の横座にすわった。そして眼鏡をはずす間もなく、両手を顔にあてて、下の方から、禿《は》げ上がった両鬢《りょうびん》へとはげしくなで上げた。それが父が草臥《くたび》れた時のしぐさであると同時に、何か心にからんだことのある時のしぐさだ。彼は座敷に荷物を運び入れる手伝いをした後、父の前に座を取って、そのしぐさに対して不安を感じた。今夜は就寝がきわめて晩《おそ》くなるなと思った。
 二人が風呂から上がると内儀《おかみ》さんが食膳を運んで、監督は相伴なしで話し相手をするために部屋の入口にかしこまった。
 父は風呂で火照《ほて》った顔を双手《りょうて》でなで上げながら、大きく気息《いき》を吐き出した。内儀《おかみ》さんは座にたえないほどぎごちない思いをしているらしかった。
「風呂桶をしかえたな」
 父は箸を取り上げる前に、監督をまともに見てこう詰《なじ》るように言った。
「あまり古くなりましたんでついこの間……」
「費用は事務費で仕払ったのか……俺《わ》しのほうの支払いになっているのか」
「事務費のほうに計上しましたが……」
「矢部に断わったか」
 監督は別に断わりはしなかった旨を答えた。父はそれには別に何も言わなかったが、黙ったまま鋭く眼を光らした。それから食膳の豊かすぎることを内儀《おかみ》さんに注意し、山に来たら山の産物が何よりも甘《うま》いのだから、明日からは必ず町で買物などはしないようにと言い聞かせた。内儀さんはほとほと気息《いき》づまるように見えた。
 食事が済むと煙草を燻《くゆ》らす暇もなく、父は監督に帳簿を持って来るように命じた。監督が風呂はもちろん食事もつかっていないことを彼が注意したけれども、父はただ「うむ」と言っただけで、取り合わなかった。
 監督は一|抱《かか》えもありそうな書類をそこに持って出た。一杯機嫌になったらしい小作人たちが挨拶を残して思い思いに帰ってゆく気配が事務所の方でしていた。冷え切った山の中の秋の夜の静まり返った空気の中を、その人たちの跫音《あしおと》がだんだん遠ざかって行った。熱心に帳簿のページを繰っている父の姿を見守りながら、恐らく父には聞こえていないであろうその跫音を彼は聞き送っていた。彼には、その人たちが途中でどんなことを話し合ったか、小屋に帰ってその家族にどんな噂《うわさ》をして聞かせたかがいろいろに想像されていた。それが彼にとってはどれもこれも快いと思われるものではなかった。彼は征服した敵地に乗り込んだ、無興味な一人の将校のような気持ちを感じた。それに引きかえて、父は一心不乱だった。監督に対してあらゆる質問を発しながら、帳簿の不備を詰《なじ》って、自分で紙を取りあげて計算しなおしたりした。監督が算盤《そろばん》を取りあげて計算をしようと申し出ても、かまいつけずに自分で大きな数を幾度も計算しなおした。父の癖として、このように一心不乱になると、きわめて簡単な理屈がどうしてもわからないと思われるようなことがあった。監督が小言《こごと》を言われながら幾度も説明しなおさなければならなかった。彼もできるだけ穏やかにその説明を手伝った。そうすると父の機嫌は見る見る険悪になった。
「そんなことはお前に言われんでもわかっている。俺《わ》しの聞くのはそんなことじゃない。理屈を聞こうとしとるんではないのだ。早田は俺しの言うことが飲み込めておらんから聞きただしているのじゃないか。もう一度俺しの言うことをよく聞いてみるがいい」
 そう言って、父は自分の質問の趣意を、はたから聞いているときわめてまわりくどく説明するのだったが、よく聞いていると、なるほどとうなずかれるほど急所にあたったことを言っていたりした。若い監督も彼の父の質問をもっとありきたりのことのように取っていたのだ。監督は、質問の意味を飲み込むことができると礑《は》たと答えに窮したりした。それはなにも監督が不正なことをしていたからではなく会計上の知識と経験との不足から来ているのに相違ないのだが、父はそこに後ろ暗いものを見つけでもしたようにびしびしとやり込めた。
 彼にはそれがよく知れていた。けれども彼は濫《みだ》りなさし出口はしなかった。いささかでも監督に対する父の理解を補おうとする言葉が彼の口から漏れると、父は彼に向かって悪意をさえ持ちかねないけんまくを示したからだ。彼は単に、農場の事務が今日までどんな工合《ぐあい》に運ばれていたかを理解しようとだけ勉《つと》めた。彼は五年近く父の心に背《そむ》いて家には寄りつかなかったから、今までの成り行きがどうなっているか皆目見当がつかな
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