足らぬ小さなことのように、
「さようですか。そういうことならそういたしても私どものほうではけっして差し支えございませんが……」
と言って、軽く受け流して行くのだった。思い入って急所を突くつもりらしく質問をしかけている父は、しばしば背負い投げを食わされた形で、それでも念を押すように、
「はあそうですか。それではこの件はこれでいいのですな」
と附け足して、あとから訂正なぞはさせないぞという気勢を示したが、矢部はたじろぐ風も見せずに平気なものだった。実際彼から見ていても、父の申し出の中には、あまりに些末《さまつ》のことにわたって、相手に腹の細さを見透かされはしまいかと思う事もあった。彼はそういう時には思わず知らずはらはらした。何処《どこ》までも謹恪《きんかく》で細心な、そのくせ商売人らしい打算に疎《うと》い父の性格が、あまりに痛々しく生粋の商人の前にさらけ出されようとするのが剣呑《けんのん》にも気の毒にも思われた。
しかし父はその持ち前の熱心と粘り気とを武器にしてひた押しに押して行った。さすがに商魂で鍛《きた》え上げたような矢部も、こいつはまだ出くわさなかった手だぞと思うらしく、ふと行き詰まって思案顔をする瞬間もあった。
「事業の経過はだいたい得心が行きました。そこでと」
父は開墾を委託する時に矢部と取り交わした契約書を、「緊要書類」と朱書きした大きな状袋から取り出して、
「この契約書によると、成墾引継ぎのうえは全地積の三分の一をお礼としてあなたのほうに差し上げることになってるのですが……それがここに認めてある百二十七町四段歩なにがし……これだけの坪敷になるのだが、そのとおりですな」
と粗《あら》い皺《しわ》のできた、短い、しかし形のいい指先で数字を指し示した。
「はいそのとおりで……」
「そうですな。ええ百二十七町四段二|畝歩《せぶ》也《なり》です。ところがこれっぱかりの地面をあなたがこの山の中にお持ちになっていたところで万事に不便でもあろうかと……これは私だけの考えを言ってるんですが……」
「そのとおりでございます。それで私もとうから……」
「とうから……」
「さよう、とうからこの際には土地はいただかないことにして、金でお願いができますれば結構だと存じていたのでございますが……しかし、なに、これとてもいわばわがままでございますから……御都合もございましょうし……」
「とうから」と聞きかえした時に父のほうから思わず乗り出した気配《けはい》があったが、すぐとそれを引き締めるだけの用意は欠いていなかった。
「それはこちらとしても都合のいいことではあります。しかし金高の上の折り合いがどんなものですかな。昨夜早田と話をした時、聞きただしてみると、この辺の土地の売買は思いのほか安いものですよ」
父は例の手帳を取り出して、最近売買の行なわれた地所の価格を披露しにかかると、矢部はその言葉を奪うようにだいたいの相場を自分のほうから切り出した。彼は昨夜の父と監督との話を聞いていたのだが、矢部の言うところは(始終札幌にいてこの土地に来たのははじめてだと言ったにもかかわらず)けっしてけたをはずれたようなものではなかった。それを聞く父は意外に思ったらしかったが、彼もちょっと驚かされた。彼は矢部と監督との間に何か話合いがちゃんとできているのではないかとふと思った。まして父がそううたぐるのは当然なことだ。彼はすぐ注意して父を見た。その眼は明らかに猜疑《さいぎ》の光を含んで、鋭く矢部の眼をまともに見やっていた。
最後の白兵戦になったと彼は思った。
もう夕食時はとうに過ぎ去っていたが、父は例の一徹からそんなことは全く眼中になかった。彼はかくばかり迫り合った空気をなごやかにするためにも、しばらくの休戦は都合のいいことだと思ったので、
「もうだいぶ晩《おそ》くなりましたから夕食にしたらどうでしょう」
と言ってみた。それを聞くと父の怒りは火の燃えついたように顔に出た。
「馬鹿なことを言うな。この大事なお話がすまないうちにそんな失礼なことができるものか」
と矢部の前で激しく彼をきめつけた。興奮が来ると人前などをかまってはいない父の性癖だったが、現在矢部の前でこんなものの言い方をされると、彼も思わずかっとなって、いわば敵を前において、自分の股肱《ここう》を罵《ののし》る将軍が何処《どこ》にいるだろうと憤ろしかった。けれども彼は黙って下を向いてしまったばかりだった。そして彼は自分の弱い性格を心の中でもどかしく思っていた。
「いえ手前でございますならまだいただきたくはございませんから……全くこのお話は十分に御了解を願うことにしないとなんでございますから……しかし御用意ができましたのなら……」
「いやできておっても少しもかまわんのです」
父は矢部の取りなし顔な愛想に対してにべなく応じた。父はすぐ元の問題に返った。
「それは早田からお聞きのことかもしれんが、おっしゃった値段は松沢農場に望み手があって折り合った値段で、村一帯の標準にはならんのですよ。まず平均一段歩二十円前後のものでしょうか」
矢部は父のあまりの素朴さにユウモアでも感じたような態度で、にこやかな顔を見せながら、
「そりゃ……しかしそれじゃ全く開墾費の金利にも廻りませんからなあ」
と言ったが、父は一気にせきこんで、
「しかし現在、そうした売買になってるのだから。あなた今開墾費とおっしゃったが、こうっと、お前ひとつ算盤《そろばん》をおいてみろ」
さきほどの荒い言葉の埋合せでもするらしく、父はやや面をやわらげて彼の方を顧みた。けれども彼は父と同様珠算というものを全く知らなかった。彼がやや赤面しながらそこらに散らばっている白紙と鉛筆とを取り上げるのを見た父は、またしても理材にかけての我が子の無能さをさらけ出したのを悔いて見えた。けれども息子の無能な点は父にもあったのだ。父は永年国家とか会社銀行とかの理財事務にたずさわっていたけれども、筆算のことにかけては、極度に鈍重だった。そのために、自分の家の会計を調べる時でも、父はどうかするとちょっとした計算に半日もすわりこんで考えるような時があった。だから彼が赤面しながら紙と鉛筆とを取り上げたのは、そのまま父自身のやくざな肖像画にも当たるのだ。父は眼鏡の上からいまいましそうに彼の手許をながめやった。そして一段歩に要する開墾費のだいたいをしめ上げさせた。
「それを百二十七町四段二畝歩にするといくらになるか」
父はなお彼の不器用な手許から眼を放さずにこう追っかけて命令した。そこで彼はもうたじろいでしまった。彼は矢部の眼の前に自分の愚かしさを暴露するのを感じつつも、たどたどしく百二十七町を段に換算して、それに四段歩を加え始めた。しかし待ち遠しそうに二人からのぞき込まれているという意識は、彼の心の落ち着きを狂わせて、ややともすると簡単な九々すらが頭に浮かび上がって来なかった。
「そこは七じゃなかろうが、四だろうが」
父はこんな差出口をしていたが、その言葉がだんだん荒々しくなったと思うと、突然「ええ」と言って彼から紙をひったくった。
「そのくらいのことができんでどうするのか」
明らかと怒号だった。彼はむしろ呆気《あっけ》に取られて思わず父の顔を見た。泣き笑いと怒りと入れ交ったような口惜しげな父の眼も烈しく彼を見込んでいた。そして極度の侮蔑《ぶべつ》をもって彼から矢部の方に向きなおると、
「あなたひとつお願いしましょう、ちょっと算盤《そろばん》を持ってください」
とほとほと好意をこめたと聞こえるような声で言った。
矢部は平気な顔をしながらすぐさま所要の答えを出してしまった。
もうこれ以上彼のいる場所ではないと彼は思った。そしてふいと立ち上がるとかまわずに事務所の方に行ってしまった。
座敷とは事かわって、すっかり暗くなった囲炉裡《いろり》のまわりには、集まって来た小作人を相手に早田が小さな声で浮世話をしていた。内儀《おかみ》さんは座敷の方に運ぶ膳《ぜん》のものが冷えるのを気にして、椀《わん》のものをまたもとの鍋にかえしたりしていた。彼がそこに出て行くと、見る見るそこの一座の態度が変わって、いやな不自然さがみなぎってしまった。小作人たちはあわてて立ち上がるなり、草鞋《わらじ》のままの足を炉ばたから抜いて土間《どま》に下り立つと、うやうやしく彼に向かって腰を曲げた。
「若い且那《だんな》、今度はまあ御苦労様でございます」
その中で物慣れたらしい半白の丈《た》けの高いのが、一同に代わってのようにこう言った。「御苦労はこっちのことだぞ」そうその男の口の裏は言っているように彼には感じられた。不快な冷水を浴びた彼は改めて不快な微温湯を見舞われたのだ。それでも彼は能《あた》うかぎり小作人たちに対して心置きなく接していたいと願った。それは単にその場合のやり切れない気持ちから自分がのがれ出たかったからだ。小作人たちと自分とが、本当に人間らしい気持ちで互いに膝《ひざ》を交えることができようとは、夢にも彼は望み得なかったのだ。彼といえどもさすがにそれほど自己を偽瞞《ぎまん》することはできなかった。
けれどもあまりといえばあんまりだった。小作人たちは、
「さあ、ずっとお寄りなさって。今日は晴れているためかめっきり冷えますから」
と早田が口添えするにもかかわらず、彼らはあてこすりのように暗い隅っこを離れなかった。彼は軽い捨て鉢な気分でその人たちにかまわず囲炉裡《いろり》の横座にすわりこんだ。
内儀《おかみ》さんがランプを座敷に運んで行ったが、帰って来ると父からの言いつけを彼に伝えた。それは彼が小作人の一人一人を招いて、その口から監督に対する訴訟と、農場の規約に関する希望とを聞き取っておく役廻りで、昨夜寝る時に父が彼に命令した仕事だった。小作人が次々に事務所をさして集まって来るのもそのためだったのだ。
事務所に薄ぼんやりと灯が点《とも》された。燻製《くんせい》の魚のような香いと、燃えさしの薪の煙とが、寺の庫裡《くり》のようにがらんと黝《くろ》ずんだ広間と土間とにこもって、それが彼の頭の中へまでも浸み透ってくるようだった。なんともいえない嫌悪の情が彼を焦《い》ら立たせるばかりだった。彼はそこを飛び出して行って畑の中の広い空間に突っ立って思い存分の呼吸がしたくてたまらなくなった。壁訴訟じみたことをあばいてかかって聞き取らねばならないほど農場というものの経営は入り組んでいるのだろうか。監督が父の代から居ついていて、着実で正直なばかりでなく、自分を一人の平凡人であると見切りをつけて、満足して農場の仕事だけを守っているのは、彼の歩いて行けそうな道ではなかったけれども、彼はそういう人に対して暖かい心を持たずにはいられなかった。その人を除《の》けものにしておいて、他人にその噂《うわさ》をさせて平気で聞いていることはどうしても彼にはできないと思った。
ともかく、彼は監督に頼んで執務室に火を入れてもらって、小作人を一人一人そこに呼び入れた。そして農場の経営に関する希望だけを聞くことにした。五、六人の人が出はいりする前に、彼は早くもそんなことをする無益さを思い知らねばならなかった。頭の鈍《にぶ》い人たちは、申し立つべき希望の端くれさえ持ち合わしてはいなかったし、才覚のある人たちは、めったなことはけっして口にしなかった。去年も今年も不作で納金に困る由をあれだけ匂《にお》わしておきながら、いざ一人になるとそんな明らかなことさえ訴えようとする人はなかった。彼はそれでも十四、五人までは我慢したが、それで全く絶望してもう小作人を呼び入れることはしなかった。そして火鉢の上に掩《おお》いかぶさるようにして、一人で考えこんでしまった。なんということもなく、父に対する反抗の気持ちが、押さえても押さえても湧き上がってきて、どうすることもできなかった。
ほど経てから内儀《おかみ》さんが恐る恐るやって来て、夕食のしたくができたからと言って来た。食慾は不思議になくなっていたけれども、彼はしょうことな
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