縦令《たとえ》永年見慣れて来た早田でも、事業のうえ、競争者の手先と思わなければならぬという意識が、父の胸にはわだかまっているのだ。いわば公私の区別とでもいうものをこれほど露骨にさらけ出して見せる父の気持ちを、彼はなぜか不快に思いながらも驚嘆せずにはいられなかった。
 一行はまた歩きだした。それからは坂道はいくらもなくって、すぐに広々とした台地に出た。そこからずっとマッカリヌプリという山の麓《ふもと》にかけて農場は拡がっているのだ。なだらかに高低のある畑地の向こうにマッカリヌプリの規則正しい山の姿が寒々と一つ聳《そび》えて、その頂きに近い西の面だけが、かすかに日の光を照りかえして赤ずんでいた。いつの間にか雲一ひらもなく澄みわたった空の高みに、細々とした新月が、置き忘れられた光のように冴《さ》えていた。一同は言葉少なになって急ぎ足に歩いた。基線道路と名づけられた場内の公道だったけれども畦道《あぜみち》をやや広くしたくらいのもので、畑から抛《ほう》り出された石ころの間なぞに、酸漿《ほうずき》の実が赤くなってぶら下がったり、轍《わだち》にかけられた蕗《ふき》の葉がどす黒く破れて泥にまみれたりしていた。彼は野生になったティモシーの茎を抜き取って、その根もとのやわらかい甘味を噛《か》みしめなどしながら父のあとに続いた。そして彼の後ろから来る小作人たちのささやきのような会話に耳を傾けた。
「夏作があんなだに、秋作がこれじゃ困ったもんだ」
「不作つづきだからやりきれないよ全く」
「そうだ」
 ぼそぼそとしたひとりごとのような声だったけれども、それは明らかに彼の注意を引くように目論《もくろ》まれているのだと彼は知った。それらの言葉は父に向けてはうっかり言えない言葉に違いない。しかし彼ならばそれを耳にはさんで黙っているだろうし、そしてそれが結局小作人らにとって不為めにはならないのを小作人たちは知りぬいているらしかった。彼には父の態度と同様、小作人たちのこうした態度も快くなかった。東京を発《た》つ時からなんとなくいらいらしていた心の底が、いよいよはっきり焦《い》らつくのを彼は感じた。そして彼はすべてのことを思うままにぶちまけることのできない自分をその時も歯痒《はが》ゆく思った。
 事務所にはもう赤々とランプがともされていて、監督の母親や内儀《おかみ》さんが戸の外に走り出て彼らを出迎えた。
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