土下座せんばかりの母親の挨拶などに対しても、父は監督に対すると同時に厳格な態度を見せて、やおら靴を脱ぎ捨てると、自分の設計で建て上げた座敷にとおって、洋服のままきちんと囲炉裡《いろり》の横座にすわった。そして眼鏡をはずす間もなく、両手を顔にあてて、下の方から、禿《は》げ上がった両鬢《りょうびん》へとはげしくなで上げた。それが父が草臥《くたび》れた時のしぐさであると同時に、何か心にからんだことのある時のしぐさだ。彼は座敷に荷物を運び入れる手伝いをした後、父の前に座を取って、そのしぐさに対して不安を感じた。今夜は就寝がきわめて晩《おそ》くなるなと思った。
二人が風呂から上がると内儀《おかみ》さんが食膳を運んで、監督は相伴なしで話し相手をするために部屋の入口にかしこまった。
父は風呂で火照《ほて》った顔を双手《りょうて》でなで上げながら、大きく気息《いき》を吐き出した。内儀《おかみ》さんは座にたえないほどぎごちない思いをしているらしかった。
「風呂桶をしかえたな」
父は箸を取り上げる前に、監督をまともに見てこう詰《なじ》るように言った。
「あまり古くなりましたんでついこの間……」
「費用は事務費で仕払ったのか……俺《わ》しのほうの支払いになっているのか」
「事務費のほうに計上しましたが……」
「矢部に断わったか」
監督は別に断わりはしなかった旨を答えた。父はそれには別に何も言わなかったが、黙ったまま鋭く眼を光らした。それから食膳の豊かすぎることを内儀《おかみ》さんに注意し、山に来たら山の産物が何よりも甘《うま》いのだから、明日からは必ず町で買物などはしないようにと言い聞かせた。内儀さんはほとほと気息《いき》づまるように見えた。
食事が済むと煙草を燻《くゆ》らす暇もなく、父は監督に帳簿を持って来るように命じた。監督が風呂はもちろん食事もつかっていないことを彼が注意したけれども、父はただ「うむ」と言っただけで、取り合わなかった。
監督は一|抱《かか》えもありそうな書類をそこに持って出た。一杯機嫌になったらしい小作人たちが挨拶を残して思い思いに帰ってゆく気配が事務所の方でしていた。冷え切った山の中の秋の夜の静まり返った空気の中を、その人たちの跫音《あしおと》がだんだん遠ざかって行った。熱心に帳簿のページを繰っている父の姿を見守りながら、恐らく父には聞こえていないであ
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