こかしこには暗い影になって一人二人の農夫がまだ働き続けていた。彼は小作小屋の前を通るごとに、気をつけて中をのぞいて見た。何処《どこ》の小屋にも灯はともされずに、鍋の下の囲炉裡火《いろりび》だけが、言葉どおりかすかに赤く燃えていた。そのまわりには必ず二、三人の子供が騒ぎもしないできょとんと火を見つめながら車座にうずくまっていた。そういう小屋が、草を積み重ねたように離れ離れにわびしく立っていた。
 農場の事務所に達するには、およそ一丁ほどの嶮《けわ》しい赤土の坂を登らなければならない。ちょうど七十二になる彼の父はそこにかかるとさすがに息切れがしたとみえて、六合目ほどで足をとどめて後をふり返った。傍見《わきみ》もせずに足にまかせてそのあとに※[#「足へん+徙」、173−12]《つ》いて行った彼は、あやうく父の胸に自分の顔をぶつけそうになった。父は苦々しげに彼を尻目にかけた。負けじ魂の老人だけに、自分の体力の衰えに神経をいら立たせていた瞬間だったのに相違ない。しかも自分とはあまりにかけ離れたことばかり考えているらしい息子の、軽率な不作法が癪《しゃく》にさわったのだ。
「おい早田」
 老人は今は眼の下に見わたされる自分の領地の一区域を眺めまわしながら、見向きもせずに監督の名を呼んだ。
「ここには何戸はいっているのか」
「崕地《がけち》に残してある防風林のまばらになったのは盗伐ではないか」
「鉄道と換え地をしたのはどの辺にあたるのか」
「藤田の小屋はどれか」
「ここにいる者たちは小作料を完全に納めているか」
「ここから上る小作料がどれほどになるか」
 こう矢継ぎ早やに尋ねられるに対して、若い監督の早田は、格別のお世辞気もなく穏やかな調子で答えていたが、言葉が少し脇道にそれると、すぐ父からきめつけられた。父は監督の言葉の末にも、曖昧《あいまい》があったら突っ込もうとするように見えた。白い歯は見せないぞという気持ちが、世故に慣れて引き締まった小さな顔に気味悪いほど動いていた。
 彼にはそうした父の態度が理解できた。農場は父のものだが、開墾は全部矢部という土木業者に請負わしてあるので、早田はいわば矢部の手で入れた監督に当たるのだ。そして今年になって、農場がようやく成墾したので、明日は矢部もこの農場に出向いて来て、すっかり精算をしようというわけになっているのだ。明日の授受が済むまでは、
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