って、麦稈《むぎわら》を積み乗せただけの狭い掘立小屋の中には、床も置かないで、ならべた板の上に蓆《むしろ》を敷き、どの家にも、まさかりかぼちゃが大鍋に煮られて、それが三度三度の糧《かて》になっているような生活が、開墾当時のまま続けられているのを見ると、彼はどうしてもあるうしろめたさを感じないではいられなかったのだが、矢部はいったいそれをどう見ているのだろうと思った。しかし彼はそれについては何も言わなかった。
「ともかくこれから一つ帳簿のほうのお調べをお願いいたしまして……」
その人の癖らしく矢部はめったに言葉に締めくくりをつけなかった。それがいかにも手慣れた商人らしく彼には思われた。
帳簿に向かうと父の顔色は急に引き締まって、監督に対する時と同じようになった。用のある時は呼ぶからと言うので監督は事務所の方に退けられた。
きちょうめんに正座して、父は例の皮表紙の懐中手帳を取り出して、かねてからの不審の点を、からんだような言い振りで問いつめて行った。彼はこの場合、懐手《ふところで》をして二人の折衝を傍観する居心地の悪い立場にあった。その代わり、彼は生まれてはじめて、父が商売上のかけひきをする場面にぶつかることができたのだ。父は長い間の官吏生活から実業界にはいって、主に銀行や会社の監査役をしていた。そして名監査役との評判を取っていた。いったい監査役というものが単に員に備わるというような役目なのか、それとも実際上の威力を営利事業のうえに持っているものなのかさえ本当に彼にははっきりしていなかった。また彼の耳にはいる父の評判は、営業者の側から言われているものなのか、株主の側から言われているものなのか、それもよくはわからなかった。もし株主の側から出た噂《うわさ》ならだが、営業者間の評判だとすると、父は自分の役目に対して無能力者だと裏書きされているのと同様になる。彼はこれらの関係を知り抜くことには格別の興味をもっていたわけではなかったけれども、偶然にも今日は眼《ま》のあたりそれを知るようなはめになった自分を見いだしたのだ。まだ見なかった父の一面を見るという好奇心も動かないではなかった。けれどもこれから展開されるだろう場面の不愉快さを想像することによって、彼の心はどっちかというと暗くされがちだった。
矢部は父の質問に気軽く答え始めた。その質問の大部分が矢部にとっては物の数にも
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