ゅうにみなぎった。父は捨てどころに困《こう》じて口の中に啣《ふく》んでいた梅干の種を勢いよくグーズベリーの繁みに放りなげた。
 監督は矢部の出迎えに出かけて留守だったが、父の膝許《ひざもと》には、もうたくさんの帳簿や書類が雑然と開きならべられてあった。
 待つほどもなく矢部という人が事務所に着いた。彼ははじめてその人を見たのだった。想像していたのとはまるで違って、四十|恰好《かっこう》の肥った眇眼《すがめ》の男だった。はきはきと物慣れてはいるが、浮薄でもなく、わかるところは気持ちよくわかる質《たち》らしかった。彼と差し向かいだった時とは反対に、父はその人に対してことのほか快活だった。部屋の中の空気が昨夜とはすっかり変わってしまった。
「なあに、疲れてなんかおりません。こんなことは毎度でございますから」
 朝飯をすますとこう言って、その人はすぐ身じたくにかかった。そして監督の案内で農場内を見てまわった。
「私は実はこちらを拝見するのははじめてで、帳場に任して何もさせていたもんでございますから、……もっとも報告は確実にさせていましたからけっしてお気に障《さわ》るような始末にはなっていないつもりでございますが、なにしろ少し手を延ばして見ますと、体がいくつあっても足りませんので」
 そう言って矢部は快げに日の光をまともに受けながら声高に笑った。その言葉を聞くと父は意外そうに相手の顔を見た。そして不安の色が、ちらりとその眼を通り過ぎた。
 農場内を一とおり見てまわるだけで十分半日はかかった。昼少し過ぎに一同はちょうどいい疲れかげんで事務所に帰りついた。
「まずこれなら相当の成績でございます。私もお頼まれがいがあったようなものかと思いますが、いかがな思召《おぼしめ》しでしょう」
 矢部は肥っているだけに額に汗をにじませながら、高縁に腰を下ろすと疲れが急に出たような様子でこう言った。父にもその言葉には別に異議はないらしく見えた。
 しかし彼は矢部の言葉をそのまま取り上げることはできなかった。六十戸にあまる小作人の小屋は、貸附けを受けた当時とどれほど改まっているだろう。馬小屋を持っているのはわずかに五、六軒しかなかったではないか。ただだだっ広く土地が掘り返されて作づけされたというだけで成績が挙がったということができるものだろうか。
 玉蜀黍穀《とうもろこしがら》といたどりで周囲を囲
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