。然し今は物がそれを占有する。吃《ども》る事なしには私達は自分の心を語る事が出来ない。恋人の耳にささやかれる言葉はいつでも流暢《りゅうちょう》であるためしがない。心から心に通う為めには、何んという不完全な乗り物に私達は乗らねばならぬのだろう。
 のみならず言葉は不従順な僕《しもべ》である。私達は屡※[#二の字点、1−2−22]言葉の為めに裏切られる。私達の発した言葉は私達が針ほどの誤謬《ごびゅう》を犯すや否や、すぐに刃《やいば》を反《か》えして私達に切ってかかる。私達は自分の言葉故に人の前に高慢となり、卑屈となり、狡智《こうち》となり、魯鈍《ろどん》となる。
 かかる言葉に依頼して私はどうして私自身を誤りなく云い現わすことが出来よう。私は已《や》むを得ず言葉に潜む暗示により多くの頼みをかけなければならない。言葉は私を言い現わしてくれないとしても、その後につつましやかに隠れているあの睿智《えいち》の独子《ひとりご》なる暗示こそは、裏切る事なく私を求める者に伝えてくれるだろう。
 暗示こそは人に与えられた子等の中、最も優《すぐ》れた娘の一人だ。然し彼女が慎み深く、穏かで、かつ容易にその面紗
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