るものであることをよく知りぬいている。ただ、今の私はそこに一番堅固な立場を持っているが故に、そこに立つことを恥じまいとするものだ。前にもいったように、私はより高い大きなものに対する欲求を以《もっ》て、知り得たる現在に安住し得るのを自己に感謝する。

        二

 私の言おうとする事が読者に十分の理解を与え得なくはないかと恐れる。人が人自身を言い現わすのは一番容易なことであらねばならぬ。何となれば、それはその人自身が最もよく知り抜いている筈《はず》の事柄だから。
 実際は然しそうではない。私達の用いている言葉は謂《い》わば狼穽《ろうせい》のようなものだ。それは獲物を取るには役立つけれども、私達自身に向っては妨げにこそなれ、役には立たない。或《あるい》は拡大鏡のようなものだ。私達はそれによって身外を見得るけれども、私達自身の顔を見ることは出来ない。或は又精巧な機械といってもよい。私達はそれによって有らゆるものを造り出し得るとしても、遂に私達自身を造り出すことは出来ない。
 言葉は意味を表わす為めに案じ出された。然しそれは当初の目的から段々に堕落した。心の要求が言葉を創《つく》った
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