か。けれども名前はどうでもいい。或る人は私の最後の到達を私の卑屈がさせた業《わざ》だというだろう。或る人は又私の勇気がさせた業だというかも知れない。ただ私自身にいわせるなら、それは必至な或る力が私をそこまで連れて来たという外はない。誰でもが、この同じ必至の力に促されていつか一度はその人自身に帰って行くのだ。少くとも死が間近かに彼に近づく時には必ずその力が来るに相違ない。一人として早晩個性との遭遇を避け得るものはない。私もまた人間の一人として、人間並みにこの時個性と顔を見合わしたに過ぎない。或る人よりは少し早く、そして或る人よりは甚《はなは》だおそく。
 これは少くとも私に取っては何よりもいいことだった。私は長い間の無益な動乱の後に始めて些《いささ》かの安定を自分の衷《うち》に見出した。ここは居心がいい。仕事を始めるに当って、先《ま》ず坐り心地のいい一脚の椅子を得たように思う。私の仕事はこの椅子に倚《よ》ることによって最もよく取り運ばれるにちがいないのを得心する。私はこれからでも無数の煩悶《はんもん》と失敗とを繰り返すではあろうけれども、それらのものはもう無益に繰り返される筈がない。煩悶
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