出してしまった。私の卑陋はここでも私に卑陋な行いをさせた。私の属していた団体の言葉を借りていえば、私の行《おこない》の根柢《こんてい》には大それた高慢が働いていたと云える。
けれども私は小さな声で私にだけ囁《ささや》きたい。心の奥底では、私はどうかして私を偽善者から更に偽善者に導こうとする誘因を避けたい気持がないではなかったということを。それを突き破るだけの強さを持たない私はせめてはそれを避けたいと念じていたのだ。前にもいったように外界に支配され易《やす》い私は、手厳しい外界に囲まれていればいる程、自分すら思いもかけぬ偽善を重ねて行くのに気づき、そしてそれを心から恐れるようになってはいたのだ。だから私は私の属していた団体を退くと共に、それまで指導を受けていた先輩達との直接の接触からも遠ざかり始めた。
偽善者であらぬようになりたい。これは私として過分な欲求であると見られるかも知れないけれども、偽善者は凡て、偽善者でなかったらよかろうという心持を何処かの隅《すみ》に隠しながら持っているのだ。私も少しそれを持っていたばかりだ。
義人、偽善者、罪人、そうした名称が可なり判然区別されて、それがびしびしと人にあてはめられる社会から私が離れて行ったのは、結局悪いことではなかったと私は今でも思っている。
神を知ったと思っていた私は、神を知ったと思っていたことを知った。私の動乱はそこから芽生えはじめた。その動乱の中を私はそろそろと自分の方へと帰って行った。目指す故郷はいつの間にか遙《はるか》に距《へだた》ってしまい、そして私は屡※[#二の字点、1−2−22]|蹉《つまず》いたけれども、それでも動乱に動乱を重ねながらそろそろと故郷の方へと帰って行った。
四
長い廻り道。
その長い廻り道を短くするには、自分の生活に対する不満を本当に感ずる外にはない。生老病死の諸苦、性格の欠陥、あらゆる失敗、それを十分に噛《か》みしめて見ればそれでいいのだ。それは然《しか》し如何《いか》に言説するに易く実現するに難き事柄であろうぞ。私は幾度かかかる悟性の幻覚に迷わされはしなかったか。そしてかかる悟性と見ゆるものが、実際は既定の概念を尺度として測定されたものではなかったか。私は稀《まれ》にはポーロのようには藻掻《もが》いた。然し私のようには藻掻かなかった。親鸞《しんらん》のようには悟った。然し私のようには悟らなかった。それが一体何になろう。これほど体裁のいい外貌《がいぼう》と、内容の空虚な実質とを併合した心の状態が外にあろうか。この近道らしい迷路を避けなければならないと知ったのは、長い彷徨《ほうこう》を続けた後のことだった。それを知った後でも、私はややもすればこの忌《いま》わしい袋小路につきあたって、すごすごと引き返さねばならなかった。
私は自分の個性がどんなものであるかを知りたいために、他人の個性に触れて見ようとした。歴史の中にそれを見出そうと勉めたり、芸術の中にそれを見出そうと試みたり、隣人の中にそれを見出そうと求めたりした。私は多少の知識は得たに違いなかった。私の個性の輪廓は、おぼろげながら私の眼に映るように思えぬではなかった。然しそれは結局私ではなかった。
物を見る事、物をそれ自身の生命に於てあやまたず捕捉する事、それは私が考えていたように容易なことではない。それを成就し得た人こそは世に類《たぐい》なく幸福な人だ。私は見ようと欲しないではなかった。然し見るということの本当の意味を弁《わきま》えていたといえようか。掴《つか》み得たと思うものが暫《しばら》くするといつの間にか影法師に過ぎぬのを発見するのは苦《にが》い味だ。私は自分の心を沙漠《さばく》の砂の中に眼だけを埋めて、猟人から己れの姿を隠し終《おお》せたと信ずる駝鳥《だちょう》のようにも思う。駝鳥が一つの機能の働きだけを隠すことによって、全体を隠し得たと思いこむのと反対に、私は一つの機能だけを働かすことによって、私の全体を働かしていると信ずることが屡※[#二の字点、1−2−22]ある。こうして眺《なが》められた私の個性は、整った矛盾のない姿を私に描いて見せてくれるようだけれども、見ている中にそこには何等の生命もないことが明かになって来る。それは感激なくして書かれた詩のようだ。又着る人もなく裁《た》たれた錦繍《きんしゅう》のようだ。美しくとも、価高くあがなわれても、有りながら有る甲斐《かい》のない塵芥《じんかい》に過ぎない。
私が私自身に帰ろうとして、外界を機縁にして私の当体《とうたい》を築き上げようとした試みは、空《むな》しい失敗に終らねばならなかった。
聡明にして上品な人は屡※[#二の字点、1−2−22]仮象に満足する。満足するというよりは、人の現象と称《とな》える
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