して或る時には、烏《からす》が鵜《う》の真似《まね》をするように、罪人らしく自分の罪を上辷《うわすべ》りに人と神との前に披露《ひろう》もした。私は私らしく神を求めた。どれ程完全な罪人の形に於て私はそれをなしたろう。恐らく私は誰の眼からも立派な罪人のように見えたに違いない。私は断食もした、不眠にも陥った、痩《や》せもした。一人の女の肉をも犯さなかった。或る時は神を見出だし得んためには、自分の生命を好んで断つのを意としなかった。
 他人眼《よそめ》から見て相当の精進《しょうじん》と思われるべき私の生活が幾百日か続いた後、私は或る決心を以て神の懐《ふところ》に飛び入ったと実感のように空想した。弱さの醜さよ。私はこの大事を見事に空想的に実行していた。
 そして私は完全にせよ、不完全にせよ、甦生《そせい》していたろうか。復活していたろうか。神によって罪の根から切り放された約束を与えられたろうか。
 神の懐に飛び入ったと空想した瞬間から、私が格段に瑕瑾《かきん》の少い生活に入ったことはそれは確かだ。私が隣人から模範的の青年として取り扱われたことは、私の誇りとしてではなく、私のみじめな懺悔《ざんげ》としていうことが出来る。
 けれども私は本当は神を知ってはいなかったのだ。神を知り神によりすがると宣言した手前、強いて私の言行をその宣言にあてはめていたに過ぎなかったのだ。それらが如何に弱さの生み出す空想によって色濃く彩《いろど》られていたかは、私が見事に人の眼をくらましていたのでも察することが出来る。
 この時|若《も》し私に人の眼の前に罪を犯すだけの強さがあったなら、即ち私の顧慮の対象なる外界と私とを絶縁すべき事件が起ったら、私は偽善者から一躍して正しき意味の罪人になっていたかも知れない。私は自分の罪を真剣に叫び出したかも知れない。そしてそれが恐らくは神に聞かれたろう。然し私はそうなるには余りに弱かった。人はこの場合の私を余り強過ぎたからだといおうとするかも知れない。若しそういう人があるなら、私は明かにそれが誤謬であるのを自分の経験から断言することが出来る。本当に罪人となり切る為めには、自分の凡《すべ》てを捧《ささ》げ果てる為めには、私の想像し得られないような強さが必要とせられるのだ。このパラドックスとも見れば見える申し出《い》では決して虚妄でない。罪人のあの柔和なレシグネーションの中に、昂然《こうぜん》として何物にも屈しまいとする強さを私は明かに見て取ることが出来る。神の信仰とは強者のみが与《あず》かり得る貴族の団欒《だんらん》だ。私は羨《うらやま》しくそれを眺めやる。然し私には、その入場券は与えられていない。私は単にその埓外《らちがい》にいて貴族の物真似《ミミクリー》をしていたに過ぎないのだ。
 基督《キリスト》の教会に於て、私は明かに偽善者の一群に属すべきものであるのを見出してしまった。
 砂礫《しゃれき》のみが砂礫を知る。金のみが金を知る。これは悲しい事実だ。偽善者なる私の眼には、自ら教会の中の偽善の分子が見え透いてしまった。こんな事を書き進むのは、殆《ほとん》ど私の堪《た》え得ないところだ。私は余りに自分を裸にし過ぎる。然しこれを書き抜かないと、私のこの拙い感想の筆は放《な》げ棄てられなければならない。本当は私も強い人になりたい。そして教会の中に強さが生み出した真の生命の多くを尊く拾い上げたい。私は近頃或る尊敬すべき老学者の感想を読んだが、その中に宗教に身をおいたものが、それを捨てるというようなことをするのは、如何にその人の性格の高貴さが足らないかを現わすに過ぎないということが強い語調で書かれているのを見た。私はその老学者に深い尊敬を払っているが故に、そして氏の生得の高貴な性格を知っているが故に、その言葉の空《むな》しい罵詈《ばり》でないのを感じて私自身の卑陋《ひろう》を悲しまねばならなかった。氏が凡ての虚偽と堕落とに飽満した基督旧教の中にありながら、根ざし深く潜在する尊い要素に自分のけだかさを化合させて、巌《いわお》のように堅く立つその態度は、私を驚かせ羨ませる。私は全くそれと反対なことをしていたようだ。私は自分が卑陋であるが故に、多くの卑陋なものを見てしまった。私はそれを悲しまねばならない。
 然し私は自分の卑陋から、周囲に卑陋なものを見出しておきながら、高貴な性格の人があるように、それを見ないでいることはさすがに出来なかった。卑陋なものを見出しながら、しらじらしく見ない振りをして、寛大にかまえていることは出来なかった。その程度までの偽善者になるには、私の強味が弱味より多過ぎたのかも知れない。そして私は、自分の偽善が私の属する団体を汚さんことを恐れて、そして団体の悪い方の分子が私の心を苦しめるのを厭《いと》って、その団体から逃げ
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