崩れ終る。
        ×
 一人の人の個性はその人の持つ過去全体の総和に過ぎないとある人はいうだろう。否、凡《すべ》ての個性はそれが持つ過去全体の総和に「今」が加わったものだ。そして「今」は過去と未来とを支配し得《う》る。
        ×
 ラッセルは本能を区別して創造本能と所有本能の二つにしたと私は聞かされている。私はそうは思わない。本能の本質は所有的動向である。そしてその作用の結果が創造である。
        ×
 何故に恋愛が屡※[#二の字点、1−2−22]芸術の主題となるか。芸術は愛の可及的純粋な表現である。そして恋愛は人間の他の行為に勝《まさ》って愛の集約的《インテンシティフ》な、そして全体的な作用であるからだ。
        ×
 試みに没我的愛他主義者に問いたい。あなたがその主義を主張するようになってから、あなたはあなた自身に何物をも与えなかったのですか。縦令《たとい》何ものかを与えたとしても、それは全然他を愛する為めの生存に必要なために与えたのですか。然し与えられない為めに悶死《もんし》する人がこの世の中には絶えずいるのですね。それでもあなたはその人達を助ける為めに先《ま》ず自分に必要なものを与えているのですか。そこに何等かの矛盾を感ずることはありませんか。
        ×
 私は自分自身を有機的に生活しなければならない。そのためには行為が内部からのみ現われ出なければならない。石の生長のようにではなく、植物の萠芽《ほうが》のように。
        ×
 一|艘《そう》の船が海賊船の重囲に陥った。若し敗れたら、海の藻屑《もくず》とならなければならない。若し降《くだ》ったら、賊の刀の錆《さび》とならなければならない。この危機にあって、船員は銘々が最も端的にその生命を死の脅威から救い出そうとするだろう。そしてその必死の努力が同時に、その船の安全を希《ねが》わせ、船中にあって彼と協力すべき人々の安全を希わせるだろう。各員の間には言わず語らずの中に、完全な共同作業が行われるだろう、この同じ心持で人類が常に生きていたら。少くとも事なき時に、私達がこの心持を蔑《ないがし》ろにすることがなかったならば。
        ×
 習性的生活はその所産を自己の上に積み上げる。智的生活はその所産を自己の中に貯える。本能的生活は常にその所産を捨てて飛躍する。

        二一

 私は澱《よど》みに来た、そして暫《しばら》く渦紋を描いた。
 私は再び流れ出よう。
 私はまず愛を出発点として芸術を考えて見る。
 凡《すべ》ての思想凡ての行為は表象である。
 表象とは愛が己《おの》れ自ら表現するための煩悶《はんもん》である。その煩悶の結果が即ち創造である。芸術は創造だ。故に凡ての人は多少の意味に於て芸術家であらねばならぬ。若《も》し謂《い》うところの芸術家のみが創造を司《つかさど》り、他はこれに与《あずか》らないものだとするなら、どうして芸術品が一般の人に訴えることが出来よう。芸術家と然らざる人との間に愛の断層があるならば、芸術家の表現的努力は畢竟《ひっきょう》無益ではないか。
 一人の水夫があって檣《ほばしら》の上から落日の大観を擅《ほしいま》まにし得た時、この感激を人に伝え得るよう表現する能力がなかったならば、その人は詩人とはいえない、とある技巧派の文学者はいった。然し私はそうは思わない。その荘厳な光景に対して水夫が感激を感じた以上は、その瞬間に於《おい》て彼は詩人だ。何故ならば、彼は彼自身に対して思想的にその感激を表現しているからだ。
 世には多くの唖《おし》の芸術家がいる。彼等は人に伝うべき表現の手段を持ってはいないが、その感激は往々にして所謂《いわゆる》芸術家なるものを遙《はる》かに凌《しの》ぎ越えている。小児――彼は何という驚くべき芸術家だろう。彼の心には習慣の痂《かさぶた》が固着していない。その心は痛々しい程にむき出しで鋭敏だ。私達は物を見るところに物に捕われる。彼は物を見るところに物を捕える。物そのものの本質に於てこれを捕える。そして睿智《えいち》の始めなる神々《こうごう》しい驚異の念にひたる。そこには何等の先入的|僻見《へきけん》がない。これこそは純真な芸術的態度だ。愛はかくの如き階級を経て最も明かに自己を表現する。
 けれども私達の多くはこの大事な一点を屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》顧みないような生活をしてはいないか。ジェームスは古来色々に分派した凡ての哲学の色合は、結局それをその構成者の稟資《ひんし》(temperament)に帰することが出来るといっている。これは至言だといわなければならぬ。私達の生活の様式にもまた同様のことがいわれるであろう。或る人は前人が残し置いた材料を利用
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