ねばならぬことのように力説し、人間の本能をその従属者たらしめることに心血を瀉《そそ》いで得たりとしている道学者は災いである。即ち智的生活に人間活動の外囲を限って、それを以て無上最勝の一路となす道学者は災いである。その人はいつか、本能的体験の不足から人間生活の足手まといとなっていた事を発見する悲しみに遇《あ》わねばならぬだろうから。
二〇
愛せざるところに愛する真似《まね》をしてはならぬ。憎まざるところに憎む真似をしてはならぬ。若し人間が守るべき至上命令があるとすればこの外にはないだろう。愛は烈《はげ》しい働きの力であるが故に、これを逆用するものはその場に傷《きずつ》けられなければならぬ。その人は癒《いや》すべからざる諦《あきら》めか不平かを以てその傷を繃帯《ほうたい》する外道はあるまい。
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愛は自足してなお余りがある。愛は嘗《かつ》て物ほしげなる容貌《ようぼう》をしたことがない。物ほしげなる顔を慎めよ。
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基督《キリスト》は「汝等互にさばくなかれ」といった。その言葉は普通受け取られている以上の意味を持っている。何故なら愛の生活は愛するもの一人にかかわることだ。その結果がどうであったとしたところが、他人は絶対にそれを判断すべき尺度を持っていない。然《しか》るに智的生活に於ては心外に規定された尺度がある。人は誰でもその尺度にあてはめて、或る人の行為を測定することが出来る。だから基督の言葉は智的生活にあてはむべきものではない。基督は愛の生活の如何なるものであるかを知っておられたのだ。ただその現われに於《おい》ては愛から生れた行為と、愛の真似から生れた行為とを区別することが人間に取っては殆《ほと》んど不可能だ。だから人は人をさばいてはならぬのだ。しかも今の世に、人はいかに易々とさばかれつつあることよ。
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犠牲とか、献身とか、義務とか、奉仕とか、服従の徳の説かれるところには、私達は警戒の眼を見張らねばならぬ。かくて神学者は専制政治の型に則《のっと》って神人の関係を案出した。かくて政治家は神人の例に則って君臣の関係を案出した。社会道徳と産業組織とはそのあとに続いた。それらは皆同じ法則の上に組立てられている。そこには必ず治者と被治者とがあらねばならぬ。そして治者に特権であるところのものは被治者には義務だ。被治者の所有するところのものは治者の所有せざるものだ。治者と被治者とは異った原素から成り立っている。かしこには治者の生活があり、ここには被治者の生活がある。生活そのものにかかる二元的分離はあるべき事なのか。とにもかくにも本能の生活にはかかる分離はない。石の有する本能の方向に有機物は生じた。有機物の有する本能の方向に諸生物は生じた。諸生物の本能の有する方向に人間は生じた。人間の有する本能の方向に本能そのものは動いて行く。凡てが自己への獲得だ。その間に一つの断層もない。百八十度角の方向転換はない。
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今のような人間の進化の程度にあっては、智的生活の棄却は恐らく人間生活そのものの崩壊であるであろう。然しながら、その故を以て本能的生活の危険を説き、圧抑を主張するものがあるとすれば、それは又自己と人類とを自滅に導こうとするものだといわれなければならぬ。この問題を私がこのように抽象的に申し出ると異存のある人はないようだ。けれども仮りにニイチェ一人を持ち出して来ると、その超人の哲学は忽《たちま》ち四方からの非難攻撃に遭《あ》わねばならぬのだ。
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権力と輿論《よろん》とは智的生活の所産である。権威と独創とは本能的生活の所産である。そして現世では、いつでも前者が後者を圧倒する。
釈迦《しゃか》は竜樹《りゅうじゅ》によって、基督は保羅《ポーロ》によって、孔子は朱子によって、凡てその愛の宝座から智慧《ちえ》と聖徳との座にまで引きずりおろされた。
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愛を優しい力と見くびったところから生活の誤謬《ごびゅう》は始まる。
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女は持つ愛はあらわだけれども小さい。男の持つ愛は大きいけれども遮《さえぎ》られている。そして大きい愛は屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》あらわな愛に打負かされる。
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ダヴィンチは「知ることが愛することだ」といった。愛することが知ることだ。
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人の生活の必至最極の要求は自己の完成である。社会を完成することが自己の完成であり、自己の完成がやがて社会の完成となるという如きは、現象の輪廻《りんね》相を説明したにとどまって、要求そのものをいい現わした言葉ではない。
自己完成の要求が誤って自己の一局部のそれに向けられた瞬間に、自己完成の道は跡方もなく
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