に、それは決して生活の内部にあって働くままの姿では認められない。愛は生活から仮りに切り放されて、一つの固定的な現象としてのみ観察される。謂《い》わば理智が愛の周囲――それはいかに綿密であろうとも――のみを廻転し囲繞《いにょう》している。理智的にその結論が如何《いか》に周匝《しゅうそう》で正確であろうとも、それが果して本能なる愛の本体を把握し得た結論ということが出来るだろうか。
 本能を把握するためには、本能をその純粋な形に於て理解するためには、本能的生活中に把握される外に道はない。体験のみがそれを可能にする。私の体験は、縦《よ》しそれが貧弱なものであろうとも――愛の本質を、与える本能として感ずることが出来ない。私の経験が私に告げるところによれば、愛は与える本能である代りに奪う本能であり、放射するエネルギーである代りに吸引するエネルギーである。
 他のためにする行為を利他主義といい、己《おの》れのためにする行為を利己主義というのなら、その用語は正当である。何故ならば利するという言葉は行為を表現すべき言葉だからである。然し倫理学が定義するように、他のためにせんとする衝動|若《も》しくは本能を認めて、これを利他主義といい、己れのためにせんとする衝動若しくは本能を主張してこれを利己主義というのなら、その用語は正鵠《せいこう》を失している。それは当然愛他主義愛己主義という言葉で書き改められなければならないものだ。利と愛との両語が自明的に示すが如く、利は行為或は結果を現わす言葉で、愛は動機或は原因を現わす言葉であるからだ。この用語の錯誤が偶※[#二の字点、1−2−22]《たまたま》愛の本質と作用とに対する混同を暴露してはいないだろうか。即《すなわ》ち人は愛の作用を見て直ちにその本質を揣摩《しま》し、これに対して本質にのみ名づくべき名称を与えているのではないか。又人は愛が他に働く動向を愛他主義と呼び、己れに働く動向を利己主義と呼ぶならわしを持っている。これも偶※[#二の字点、1−2−22]人が一種の先入|僻見《へきけん》を以て愛の働き方を見ている証拠にはならないだろうか。二つの言葉の中《うち》、物質的な聯想《れんそう》の附帯する言葉を己れへの場合に用い、精神的な聯想を起す言葉を他への場合に用いているのは、恐らく愛が他を益する時その作用を完《まっと》うし得るという既定の観念に制せら
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