味するのかも知れない。釈尊の菩提心《ぼだいしん》、ヨハネのロゴス、その他無数の名称はこの本能を意味すべく構出されたものであるかも知れない。然し私は自分の便宜の為めに仮りにそれを愛と名づける。愛には、本能と同じように既に種々な不純な属性的意味が膠着《こうちゃく》しているけれども、多くの名称の中で最も専門的でなく、かつ比較的に普遍的な内容をその言葉は含んでいるようだ。愛といえば人は常識的にそれが何を現わすかを朧《おぼ》ろげながらに知っている。
愛は人間に現われた純粋な本能の働きである。然し概念的に物事を考える習慣に縛られている私達は、愛という重大な問題を考察する時にも、極《きわ》めて習慣的な外面的な概念に捕えられて、その真相とは往々にして対角線的にかけへだたった結論に達していることはないだろうか。
人は愛を考察する場合、他の場合と同じく、愛の外面的表現を観察することから出発して、その本質を見窮《みきわ》めようと試みないだろうか。ポーロはその書翰《しょかん》の中に愛は「惜みなく与え」云々《うんぬん》といった、それは愛の外面的表現を遺憾なくいい現わした言葉だ。愛する者とは与える者の事である。彼は自己の所有から与え得る限りを与えんとする。彼からは今まであったものが失われて、見たところ貧しくはなるけれども、その為めには彼は憂えないのみか、却って欣喜《きんき》し雀躍《じゃくやく》する。これは疑いもなく愛の存するところには何処にも観察される現象である。実際愛するものの心理と行為との特徴は放射することであり与えることだ。人はこの現象の観察から出発して、愛の本質を帰納しようとする。そして直ちに、愛とは与える本能であり放射するエネルギーであるとする。多くの人は省察をここに限り、愛の体験を十分に噛《か》みしめて見ることをせずに、逸早くこの観念を受け入れ、その上に各自の人生観を築く。この観念は私達の道徳の大黒柱として認められる。愛他主義の倫理観が構成される。そして人間生活に於ける最も崇高な行為として犠牲とか献身とかいう徳行が高調される。そして更にこの観念が、利己主義の急所を衝《つ》くべき最も鋭利な武器として考えられる。
そう思われることを私は一概に排斥するものではない。愛が智的生活に持ち来たされた場合には、そう結論されるのは自然なことだ。智的生活にあっては愛は理智的にのみ考察されるが故
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