れているのを現わしているようだ。この愛の本質と現象との混淆《こんこう》から、私達の理解は思いもよらぬ迷宮に迷い込むだろう。

        一六

 愛を傍観していずに、実感から潜《もぐ》りこんで、これまで認められていた観念が正しいか否かを検証して見よう。
 私は私自身を愛しているか。私は躊躇《ちゅうちょ》することなく愛していると答えることが出来る。私は他を愛しているか。これに肯定的な答えを送るためには、私は或る条件と限度とを附することを必要としなければならぬ。他が私と何等かの点で交渉を持つにあらざれば、私は他を愛することが出来ない。切実にいうと、私は己れに対してこの愛を感ずるが故にのみ、己れに交渉を持つ他を愛することが出来るのだ。私が愛すべき己れの存在を見失った時、どうして他との交渉を持ち得よう。そして交渉なき他にどうして私の愛が働き得よう。だから更に切実にいうと、他が何等かの状態に於て私の中に摂取された時にのみ、私は他を愛しているのだ。然し己れの中に摂取された他は、本当をいうともう他ではない。明かに己の一部分だ。だから私が他を愛している場合も、本質的にいえば他を愛することに於て己れを愛しているのだ。そして己れをのみだ。
 但《ただ》し己を愛するとは何事を示すのであろう。私は己れを愛している。そこには聊《いささ》かの虚飾もなく誇張もない。又それを傲慢《ごうまん》な云い分ともすることは出来ない。唯あるがままをあるがままに申し出たに過ぎない。然し私が私自身をいかに深くいかによく愛しているかを省察すると問題はおのずから別になる。若し私の考えるところが謬《あやま》っていないなら、これまで一般に認められていた利己主義なるものは、極《きわ》めて功利的な、物質的な、外面的な立場からのみ考察されてはいなかったろうか。即ち生物学の自己保存の原則を極めて安価に査定して、それを愛己の本能と結び付けたものではなかったろうか。「生物発達の状態を研究して見ると、利己主義は常に利他主義以上の力を以て働いている。それを認めない訳には行かない」といったスペンサーの生物一般に対しての漫然たる主張が、何といっても利己主義の理解に対する基調になっていはしないだろうか。その主張が全事実の一部をなすものだということを私も認めない訳ではない。然しそれだけで満足し切ることを、私の本能の要求は明かに拒んでいる。
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