るものであることをよく知りぬいている。ただ、今の私はそこに一番堅固な立場を持っているが故に、そこに立つことを恥じまいとするものだ。前にもいったように、私はより高い大きなものに対する欲求を以《もっ》て、知り得たる現在に安住し得るのを自己に感謝する。

        二

 私の言おうとする事が読者に十分の理解を与え得なくはないかと恐れる。人が人自身を言い現わすのは一番容易なことであらねばならぬ。何となれば、それはその人自身が最もよく知り抜いている筈《はず》の事柄だから。
 実際は然しそうではない。私達の用いている言葉は謂《い》わば狼穽《ろうせい》のようなものだ。それは獲物を取るには役立つけれども、私達自身に向っては妨げにこそなれ、役には立たない。或《あるい》は拡大鏡のようなものだ。私達はそれによって身外を見得るけれども、私達自身の顔を見ることは出来ない。或は又精巧な機械といってもよい。私達はそれによって有らゆるものを造り出し得るとしても、遂に私達自身を造り出すことは出来ない。
 言葉は意味を表わす為めに案じ出された。然しそれは当初の目的から段々に堕落した。心の要求が言葉を創《つく》った。然し今は物がそれを占有する。吃《ども》る事なしには私達は自分の心を語る事が出来ない。恋人の耳にささやかれる言葉はいつでも流暢《りゅうちょう》であるためしがない。心から心に通う為めには、何んという不完全な乗り物に私達は乗らねばならぬのだろう。
 のみならず言葉は不従順な僕《しもべ》である。私達は屡※[#二の字点、1−2−22]言葉の為めに裏切られる。私達の発した言葉は私達が針ほどの誤謬《ごびゅう》を犯すや否や、すぐに刃《やいば》を反《か》えして私達に切ってかかる。私達は自分の言葉故に人の前に高慢となり、卑屈となり、狡智《こうち》となり、魯鈍《ろどん》となる。
 かかる言葉に依頼して私はどうして私自身を誤りなく云い現わすことが出来よう。私は已《や》むを得ず言葉に潜む暗示により多くの頼みをかけなければならない。言葉は私を言い現わしてくれないとしても、その後につつましやかに隠れているあの睿智《えいち》の独子《ひとりご》なる暗示こそは、裏切る事なく私を求める者に伝えてくれるだろう。
 暗示こそは人に与えられた子等の中、最も優《すぐ》れた娘の一人だ。然し彼女が慎み深く、穏かで、かつ容易にその面紗
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