《ヴェール》を顔からかきのけない為めに、人は屡※[#二の字点、1−2−22]この気高く美しい娘の存在を忘れようとする。殊《こと》に近代の科学は何の容赦もなく、如何《いか》なる場合にも抵抗しない彼女を、幽閉の憂目にさえ遇《あ》わせようとした。抵抗しないという美徳を逆用して人は彼女を無視しようとする。
 人間がどうしてか程優れた娘を生み出したかと私は驚くばかりだ。彼女は自分の美徳を認めるものが現われ出るまで、それを沽《う》ろうと企てたことが嘗《かつ》てない。沽ろうとした瞬間に美徳が美徳でなくなるという第一義的な真理を本能の如く知っているのは彼女だ。又正しく彼女を取り扱うことの出来ないものが、仮初《かりそめ》にも彼女に近づけば、彼女は見る見るそのやさしい存在から萎《しお》れて行く。そんな人が彼女を捕え得たと思った時には、必ず美しい死を遂げたその亡骸《なきがら》を抱くのみだ。粘土から創り上げられた人間が、どうしてかかる気高い娘を生み得たろう。
 私は私自身を言い現わす為めに彼女に優しい助力を乞おう。私は自分の生長が彼女の柔らかな胸の中に抱かれることによって成就したのを経験しているから。しかし人間そのものの向上がどれ程彼女――人間の不断の無視にかかわらず――によって運ばれたかを知っているから。
 けれども私は暗示に私を託するに当って私自身を恥じねばならぬ。私を最もよく知るものは私自身であるとは思うけれども、私の知りかたは余りに乱雑で不秩序だ。そして私は言葉の正当な使い道すらも十分には心得ていない。その言葉の後ろに安んじて巣喰うべき暗示の座が成り立つだろうかとそれを私は恐れる。
 然し私は行こう。私に取って已み難き要求なる個性の表現の為めに、あらゆる有縁《うえん》の個性と私のそれとを結び付けようとする厳《きび》しい欲求の為めに、私は敢《あ》えて私から出発して歩み出して行こう。
 私が餓えているように、或る人々は餓えている。それらの人々に私は私を与えよう。そしてそれらの人々から私も受取ろう。その為めには仮りに自分の引込思案を捨ててかかろう。許されるかぎりに於て大胆になろう。
 私が知り得る可能性を存分に申し出して見よう。唯《ただ》この貧しい言葉の中から暗示が姿を隠してしまわない事を私は祈る。

        三

 神を知ったと思っていた私は、神を知ったと思っていたことを知った
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