た平安を欲すると共に進歩を欲する。潤色(elaboration)を欲すると共に創造を欲する。平安は既存の事体の調節的持続であり、進歩は既存の事体の建設的破棄である。潤色は在《あ》るものをよりよくすることであり、創造は在らざりしものをあらしめることである。私はその一方にのみ安住しているに堪えない。私は絶えず個性の再造から再造に飛躍しようとする。然るに智的生活は私のこの飛躍的な内部要求を充足しているか。
 智的生活の出発点は経験である。経験とは要するに私の生活の残滓《ざんし》である。それは反省――意識のふりかえり――によってのみ認識せられる。一つの事象が知識になるためにはその事象が一たび生活によって濾過《ろか》されたということを必要な条件とする。ここに一つの知識があるとする。私がそれを或る事象の認識に役立つものとして承認するためには、縦令《たとい》その知識が他人の経験の結果によって出来上ったものであれ、私の経験もまたそれを裏書したものでなければならぬ。私の経験が若しその知識の基本となった経験と全然没交渉であったなら、私は到底それを自分の用い得る知識として承認することは出来ない筈だ。だから私の有する知識とは、要するに私の過去を整理し、未来に起り来《きた》るべき事件を取り扱う上の参考となるべき用具である。私と道徳とに於ける関係もまた全く同様な考え方によって定めることが出来る。即ち知識も道徳も既存の経験に基いて組み立てられたもので、それがそのまま役立つためには、私の生活が同一軌道を繰り返し繰り返し往来するのを一番便利とする。そしてそこには進歩とか創造とかいう動向の活躍がおのずから忌み避けられなければならない。
 私の生活が平安であること、そしてその内容が潤色されることを私は喜ばないとはいわない。私の内部にはいうまでもなくかかる要求が大きな力を以て働いている。私はその要求の達成を智的生活に向って感謝せねばならぬ。けれども私は永久にこの保守的な動向にばかり膠着《こうちゃく》して満足するだろうか。
 一個人よりも活動の遅鈍になり勝ちな社会的生活にあっては、この保守的な智的生活の要求は自然に一個人のそれよりも強い。平安無事ということは、社会生活の基調となりたがる。だから今の程度の人類生活の様式下にあっては、個人的の飛躍的動向を無視圧迫しても、智的生活の確立を希望する。現代の政治も、教
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