家に於ける主権者の位置にある。彼は人からあらゆる捧げものを要求する。人の生活は畢竟神の前にあっては無に等しい。神は凡ての権能の主体である。人は神の前にあって無であることを栄誉としなければならない。神に対し自己を犠牲にすることが彼の有する唯一の権利(若しそういう言葉が使えるなら)である。神の欲するところと人の欲するところとの間には、渡らるべき橋も綱もない。神と人とは全く本質を異にした二元として対立している。
国家の組織が無反省にそのまま人民によって肯定せられていた時代には、この神人関係の概念もまた無反省に受取られることが出来たろう。然し個性の欲求が、愛の動向が、体達せられた今にあっては、この神人関係の矛盾は直ちに苦痛となって、個性によって感ぜられる。生活根源の動向は凡て同じ方向に向上しなければならぬ。私達は既に石から人間に至るまでの過程に於て、同じ方向に向上して来た本能の流れを見た。私達の内部生命は獲得によってのみ向上飛躍するのを見た。然るに現存の宗教は、神にのみその動向を認めて、人間にはそれを拒もうとしているではないか。
或る人は私に告げるであろう。時勢に取り残されたるものよ。お前は神人合一の教理が夙《とう》の昔から叫ばれているのを知らないのか。神は人間と対立しているようなものではない。実に人間の衷《うち》にあって働くべきものだ。人間は又神の衷にあって働くべきものだ。神と自己とを対立させるが故に、人間は堕落するのだ。神の要求はそのまま人間の要求でなければならぬのだ。お前はそれをすら知らないで、一体何んの囈言《たわごと》をいおうとするのだと。然らば私はその人に向って問いたい。それなら何故今でも教壇の上からやむことなく犠牲の義務と献身の徳とが高調して説かれなければならないのだろう。神は嘗《かつ》て犠牲を払い献身を敢えてしたか(基督《キリスト》教徒はここで基督の生涯を引照するだろう。然し基督の生涯が犠牲でも献身でもないことは前に説いた)。然るに現在教壇からは、神にないものが人間にあらねばならぬとして要求されているのはどうしたことなのか。私はそれが人間性の根本に対する理解の不十分から来ているのではないかと疑う。そしてその疑いに全く理由がないではあるまいと思う。神人合一という概念だけは自然の必要から建て上げられた。それは政治に於て、専制政体が立憲政体に変更されたのとよく似
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