置いた場合には生存競争として現われ、社会に重きを置いた場合には相互扶助として現われたのだ。然し前者には社会が、後者には個性が、少しも度外視されていはしない。
 私達はこの時代的着色から躍進しなければならぬと私は思う。私は個性の尊厳を体験した。個性の要求の前には、社会の要求は無条件的に変らねばならぬことを知った。そして人間の個性に宿った本能即ち愛が如何なる要求を持つかを肯《がえ》んじた。そして更に又動物に現われる本能が無自覚的で、人間に現われる本能が自覚的であるのを区別した。自覚とは普遍智の要求を意味する。個性はもはや個性の社会に対する本能的要求を以て満足せず、個性自身、その全体の満足の中にのみ満足する。そこには競争すべき外界もなく、扶助すべき外界もない。人間は愛の抱擁にまで急ぐ。彼の愛の動くところ、凡ての外界は即ち彼だ。我の正しい生長と完成、この外に結局何があろうぞ。
  (以下十余行内務省の注意により抹殺《まっさつ》)
 私はこの本質から出発した社会生活改造の法式を説くことはしまいと思う。それはおのずからその人がある。私は単にここに一個の示唆を提供することによって満足する。私が持って生れた役目はそれを成就すれば足りるのだから。
 宗教もまた社会生活の一つの様式である。信仰は固《もと》より人々のことであるが、宗教といえばそれは既に社会にまで拡大された意味をもっている。そして何故に現在の宗教がその権威を失墜してしまったか。昔は一国の帝王が法王の寛恕《かんじょ》を請うために、乞食の如くその膝下《ひざもと》に伏拝した。又或る仏僧は皇帝の愚昧なる一言を聞くと、一拶《いっさつ》を残したまま飄然《ひょうぜん》として竹林に去ってしまった。昔にあっては何が宗教にかくの如き権威を附与し、今にあっては、何が私達の見るが如き退縮を招致したか。それは宗教が全く智的生活の羈絆《きはん》に自己を委《ゆだ》ね終ったからである。宗教はその生命を自分自身の中に見出《みいだ》すことを忘れて、社会的生活に全然|遵合《コンフォーム》することによって、その存在を僥倖《ぎょうこう》しようとしたからだ。国家には治者と被治者とがあって、その間には動向の根柢的な衝突が行われる。宗教は無反省にもこの概念を取って、自分に適用した。神(つまり私はここで信仰の対象を指しているのだ。その名は何んでもいい)は宗教界にあって、国
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