者は自ら人間の社会的本能が生み出した見方であると主張するけれども、その主義の根柢をなすものは生存競争なる自然現象である。生存競争は個性から始まって始めて階級争闘に移るのだ。だからその点に於て社会主義者の主張は裏切られている。無政府主義に至っては固《もと》より始めから個性生活の絶対自由をその標幟《ひょうし》としている。
社会主義はダーウィンの進化論から生存競争の原理を抜いてその主張の出発点としたことは前に述べた通りだ。クロポトキンはこれに対立して無政府主義を宣言するに当り、進化論の一原理なる相互扶助の動向を取ってその論陣を堅めた。両者共に、個性から発して動植物両界の致命的要素たる本能であるとせられている。一方の主義者は生存競争の為めの相互扶助だと主張し、一方の主義者は相互扶助の為めの生存競争だと主張する。私はここで敢えて主義者の見地を裁断しようとも思わないし、又私の自然科学に対する空疎な知識はそれをすることも許しはしない。
然し私はこういうことを申し出して見たい。ケーベル博士がそのカント論に於て「生物学に於て取り扱われる動物本能は、畢竟《ひっきょう》人間にある本能の投影に過ぎない。認識作用が事物に遵合《コンフォーム》するのではなく、却《かえ》って事物(現象としての)が認識作用に遵合するのである」といった言葉は、単に唯心論者の常套語《じょうとうご》とばかりはいい退けてしまうことが出来ない。そこには動かすことの出来ない実際的|睿智《えいち》が動いているのを私は感ずることが出来る。惟《おも》うに動物には、ダーウィンが発見した以外に幾多の本能が潜んでいるに相違ない。そしてそれがより以上の本能の力によって統合されているに相違ない。然しながら十九世紀の生物学者は、眼覚めかけて来た個性の要求(それは十八世紀の仏国の哲学者等に負うところが多いだろう)と社会の要求との間に或る広い距離を感じたのではなかったろうか。そして動物中に行われる現状打破の本能を際立《きわだ》って著しいものと認めたのではなかったろうか。然しその時学者達の頭の中には、個性は社会を組織する或る小さな因子としてのみ映っていたろう。しかのみならず科学的研究法の必然的な条件として、凡《すべ》てのものを二元的に見ることに慣らされていた。彼等はひとりでに個性と社会とを対立させた。従ってその結論も個性と社会との中、個性に重きを
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