ている。その形に於ては或る改造が成就されたように見える。立法の主体は稍※[#二の字点、1−2−22]《やや》移動したかも知れない。しかも治者と被治者とが全く相反した要求によって律せられている点に於ては寸毫《すんごう》も是正されてはいないのだ。神と人とは合一する。その言葉は如何《いか》に美しいだろう。然しその合一の実が挙がっていなかったら、その美しい空論が畢竟何の益になるか。
私はかくの如き妥協的な改良説を一番恐れなければならない。それはその外貌《がいぼう》の美しさが私をあざむきやすいからである。
宗教が国家の機械、即ち美しい言葉でいえば政務の要具たることから自分を救い出さねばならぬことは勿論であるが、現存の国家がその拠《よ》りどころとする智的生活、その智的生活から当然抽出される二元的見断から自分自身を救い出して、愛の世界にまで高まらなかったら、それは永久にその権威を回復することが出来ないだろう。
私は神を知らない。神を知らないものが神と人との関係などに対して意見を申し出るのは出過ぎたことだといわれるかも知れない。然し宗教が社会生活の一様式として考え得られる時、その様式に対して私が思うところを述べるのは許されることだと思う。私の態度を憎むものは、私の意見を無視すればそれで足りる。けれども私は私自身を無視しはしない。
教育というものに就《つ》いても、私はここでいうべき多くを持っている。然し聡明な読者は、私が社会生活の部門について述べて来たところから、私が教育に対して何をいおうとするかを十分に見抜いていられると思う。私は徒《いたず》らな重複を避けなければならない。然しここにも数言を費すことを許されたい。
子供は子供自身の為めに教育されなければならない。この一事が見過されていたなら教育の本義はその瞬間に滅びるのみならず、それは却って有害になる。社会の為めに子供を教育する――それは驚くべく悲しむべき錯誤である。
仕事に勤勉なれと教える。何故正しき仕事を選べと教えないのか。正しい仕事を選び得たものは懶惰《らんだ》であることが出来ないのだ。私は嘗て或る卒業式に列した。そこの校長は自分が一度も少年の時期を潜《くぐ》りぬけた経験を持たぬような鹿爪《しかつめ》らしい顔をして、君主の恩、父母の恩、先生の恩、境遇の恩、この四恩の尊さ難有《ありがた》さを繰返し繰返し説いて聞かせた
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