心を満足せんが為めに、即ち彼の衷《うち》にあって表現を求めている愛に、粗雑な、見当違いな満足を与えんが為めに、愛国とか、自由とか、国威の宣揚とかいう心にもない旗印をかかげ、彼の奇妙な牽引力《けんいんりょく》と、物質的報酬とを以て、彼には無縁な民衆を煽動する。民衆はその好餌《こうじ》に引き寄せられ、自分等の真の要求とは全く関係もない要求に屈服し、過去に起った或る同じような立派な事件に、自分達の無価値な行動を強《し》いて結び付けて、そこに申訳と希望とを築き上げ、そしてその大それた指導者の命令のまにまに、身命をさえ賭《と》してその事業の成就を心がける。そして、若し運命がその政治家に苛酷《かこく》でなかったならば、彼は尨然《ぼうぜん》たる国家的若しくは世界的大事業なるものを完成する。然しそこに出来上った結果はその政治家の肖像でもなく、民衆の投影でもなく、粗雑な不明瞭な重ね写真に過ぎない。そしてそれは当事者なる政治家その人の一生を無価値にし、民衆全体の進歩を阻止し、事業そのものは、段々人間の生活から分離して、遂には生活途上の用もない瓦礫《がれき》となって、徒《いたず》らに人類進歩の妨げになるだろう。このような事象は、その大小広狭の差こそあれ、私達が幾度も繰り返して遭遇せねばならぬことなのだ。しかも私達は往々その悲しい結果を暁《さと》らないのみか、かくの如きはあらねばならぬ須要《しゅよう》のことのように思いなし易い。
けれども幸いにして人類はかくの如き稟資の人ばかりからは成り立っていない。そこにはもっと愛の純真な表現を可能ならしめようとする人がある。そうしないではいられない人がある。そのためには彼は一見彼に利益らしく見える結果にも惑わされない。彼には専念すべきただ一事がある。それは彼の力の及ぶかぎり、愛の純粋な表現を成就しようということだ。縦令《たとい》その人が政治にかかわっていようが、生産に従事していようが、税吏《みつぎとり》であろうが、娼婦《しょうふ》であろうが、その粗雑な生活材料のゆるす限りに於て最上の生活を目指しているのである。それらの人々の生活はそのままよき芸術だ。彼等が表現に役立てた材料は粗雑なものであるが故に、やがては古い皮袋のように崩《くず》れ去るだろうけれども、そのあとには必ず不思議な愛の作用が残る。粗雑な材料はその中に力強く籠《こ》められる愛の力によって破
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