れ果て、それが人類進歩の妨げになるようなことはない。けれども愛の要求以上に外界の要求に従った人たちの建て上げたものは、愛がそれを破壊し終る力を持たない故に、いつまでもその醜い残骸《ざんがい》をとどめて、それを打ち壊《こわ》す愛のあらわれる時に及ぶ。
愛の純粋なる表現を更に切実に要求する人は、地上の職業にまで狭い制限を加えて、思想家若しくは普通意味せられるところの芸術家とならずにはいられないだろう。その人々は愛が汚されざらんが為めに、先《ま》ず愛の表現に役立たしむべき材料の厳選を行う。思想に増して純粋な材料を、私達人間は考えつくことが出来ない。哲人又は信仰の人などといわれる人は――若しそれがまがいものでなかったなら――ここにその出発点を持っているに違いない。普通意味せられるところの芸術家、即《すなわ》ち芸術を仕事としている人々は思想を具象化するについて、思想家のように抽象的な手段によらず、具体的な形に於てせんとするものだ。然しながらその具体的な形の中《うち》、及ぶだけ純粋に近い形に依ろうとする。その為めに彼等は洗練された感覚を以《もっ》て洗練された感覚に訴えようとする。感覚の世界は割合に人々の間に共通であり、愛にまで直接に飜訳され易いからである。感覚の中でも、実生活に縁の近い触覚若しくは味覚などに依るよりも、非功利的な機能を多量に有する視覚聴覚の如きに依ろうとする。それらの感覚に訴える手段にもまた等差が生ずる。
同じ言葉である。然しその言葉の用い方がいかに芸術家の稟資を的確に表わし出すだろう。或る人は言葉をその素朴な用途に於て使用する。或る人は一つの言葉にも或る特殊な意味を盛《も》り、雑多な意味を除去することなしには用いることを肯《がえ》んじない。散文を綴《つづ》る人は前者であり、詩に行く人は後者である。詩人とは、その表現の材料を、即ち言葉を智的生活の桎梏《しっこく》から極度にまで解放し、それによって内部生命の発現を端的にしようとする人である。だからその所産なる詩は常に散文よりも芸術的に高い位置にある。私は僅《わず》かばかりの小説と戯曲とを書いたものであるが、そのささやかなる経験からいっても、表現手段として散文がいかに幼稚なものであるかを感じないではいられない。私の個性が表現せられるために、私は自分ながらもどかしい程の廻り道をしなければならぬ。数限りもない捨石が積
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