して、愛の(即ち個性の)表現を試みようとする。又或る人は愛の純粋なる表現を欲するが故に前人の糟粕《そうはく》を嘗《な》めず、彼自らの表現手段に依ろうとする。前者はより多く智的生活に依拠し、後者はより多く本能的生活に依拠せんとするものである。若し更にジェームスの言葉を借りていえば、前者を strong−minded と呼び、後者を tender−hearted と呼ぶことが出来ようか。
智的生活に依拠して個性を表現しようとする人は、表現の材料を多く身外に求める。例えば石、例えば衣裳《いしょう》、例えば軍隊、例えば権力。そして表現の量に重きをおいて、深くその質を省みない。表現材料の精選よりもその排列に重きをおく。「始めて美人を花に譬《たと》えた人は天才であるが、二番目に同じことをいった人は馬鹿だ」とヴォルテールがいった。少くとも智的生活に固執する人は美人を花に譬える創意的なことはしない。然しそれを百合《ゆり》の花若しくは薔薇《ばら》の花に譬えることはしない限りでない。その点に於て彼は明かに馬鹿でないことが出来る。十分に智者でさえあり得る。然しその人は個性の表現に於て delicacy の尊さを多く認めないで、乱雑な成行きに委《まか》せやすい。所謂事業家とか、政治家とか、煽動家《せんどうか》とかいうような典型の人には、かかる傾向が極《きわ》めて多くあり易《やす》い。
全く実用のためにのみ造られた真四角な建築物一つにもそこに個性の表現が全然ないということは出来ない。然しながらその中から個性を、即ち愛を捜し出すということは極めて困難なことだ。個性は無意味な用材の為めに遺憾なく押しひしがれて、おまけに用材との有機的な関係から危く断たれようとしている。然し個性が全く押しひしがれ、関係が全く断たれてしまったなら、その醜い建築物といえどもそこに存在することは出来ないだろう。それは何といっても、かすかにもせよ、個性の働きによってのみその存在をつなぎ得るのだ。けれども若し私達の生活がかくの如きもののみによって囲繞《いにょう》されることを想像するのは寂しいことではないか。この時私達の個性は必ずかかる物質的な材料に対して反逆を企てるだろう。
かかる建築物の如きものが然しもっと見えのいい形で私達の生活をきびしく取り囲んでいることはないだろうか。一人の野心的政治家があるとする。彼は自己の野
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