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二一
私は澱《よど》みに来た、そして暫《しばら》く渦紋を描いた。
私は再び流れ出よう。
私はまず愛を出発点として芸術を考えて見る。
凡《すべ》ての思想凡ての行為は表象である。
表象とは愛が己《おの》れ自ら表現するための煩悶《はんもん》である。その煩悶の結果が即ち創造である。芸術は創造だ。故に凡ての人は多少の意味に於て芸術家であらねばならぬ。若《も》し謂《い》うところの芸術家のみが創造を司《つかさど》り、他はこれに与《あずか》らないものだとするなら、どうして芸術品が一般の人に訴えることが出来よう。芸術家と然らざる人との間に愛の断層があるならば、芸術家の表現的努力は畢竟《ひっきょう》無益ではないか。
一人の水夫があって檣《ほばしら》の上から落日の大観を擅《ほしいま》まにし得た時、この感激を人に伝え得るよう表現する能力がなかったならば、その人は詩人とはいえない、とある技巧派の文学者はいった。然し私はそうは思わない。その荘厳な光景に対して水夫が感激を感じた以上は、その瞬間に於《おい》て彼は詩人だ。何故ならば、彼は彼自身に対して思想的にその感激を表現しているからだ。
世には多くの唖《おし》の芸術家がいる。彼等は人に伝うべき表現の手段を持ってはいないが、その感激は往々にして所謂《いわゆる》芸術家なるものを遙《はる》かに凌《しの》ぎ越えている。小児――彼は何という驚くべき芸術家だろう。彼の心には習慣の痂《かさぶた》が固着していない。その心は痛々しい程にむき出しで鋭敏だ。私達は物を見るところに物に捕われる。彼は物を見るところに物を捕える。物そのものの本質に於てこれを捕える。そして睿智《えいち》の始めなる神々《こうごう》しい驚異の念にひたる。そこには何等の先入的|僻見《へきけん》がない。これこそは純真な芸術的態度だ。愛はかくの如き階級を経て最も明かに自己を表現する。
けれども私達の多くはこの大事な一点を屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》顧みないような生活をしてはいないか。ジェームスは古来色々に分派した凡ての哲学の色合は、結局それをその構成者の稟資《ひんし》(temperament)に帰することが出来るといっている。これは至言だといわなければならぬ。私達の生活の様式にもまた同様のことがいわれるであろう。或る人は前人が残し置いた材料を利用
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