相反馳《あいはんち》する心的作用の両極を意味するものではない。憎みとは人間の愛の変じた一つの形式である。愛の反対は憎みではない。愛の反対は愛しないことだ。だから、愛しない場合にのみ、私は何ものをも個性の中に奪い取ることが出来ないのだ。憎む場合にも私は奪い取る。それは私が憎んだところの外界と、そして私がそれに対して擲《なげう》ったおくりものとである。愛する場合に於ては、例えば私が飢えた人を愛して、これに一飯を遣《や》ったとすれば、その愛された人と一飯とは共に還って来て私自身の骨肉となるだろう。憎しみの場合に於ても、例えば私が私を陥れたものを憎んで、これに罵詈《ばり》を加えたとすれば、憎まれた人も、その醜い私の罵詈も共に還って来て私の衷《うち》に巣喰うのだ。それには愛によっての獲得と同じように永く私の衷にあって消え去ることがない。愛はそれによって、不消化な石ころを受け入れた胃腑《いのふ》のような思いをさせられる。私の愛の本能が正しく働いている限りは、それは愛の衷に溶けこまずに、いつまでも私の本質の異分子の如くに存続する。私は常住それによって不快な思いをしなければならぬ。誰か憎まない人があろう。それだから人間として誰か悒鬱《ゆううつ》な眉《まゆ》をひそめない人があろう。人間が現わす表情の中、見る人を不快にさせる悒鬱な表情は、実に憎みによって奪い取って来た愛の鬼子《おにご》が、彼の衷にあって彼を刺戟《しげき》するのに因《よ》るのではないか。私はよくこの苦々しい悒鬱を知っている。それは人間が辛《かろ》うじて到達し得た境界から私が一歩を退転した、その意識によって引き起されるのだろう。多少でも愛することの楽しさを知った私は、憎むことの苦しさを痛感する。それはいずれも本能のさせる業ではあるけれども、愛するより憎むことが如何《いか》に楽しからぬものであるかを知って苦しまねばならぬ。恐らくはよく愛するものほど、強く憎むことを知っているだろう。同時に又憎むことの如何に苦しいものであるかを痛感するだろう。そしてどうかして憎まずにあり得ることに対して骨を折るだろう。
憎まない、それは不可能のことだろうか。人間としては或は不可能であるかも知れない。然し少くとも憎悪《ぞうお》の対象を減ずることは出来る。出来る筈《はず》であるのみならず、私達は始終それを勉めているではないか。愛と憎みとが若《も》
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