私の祖先と私とが、愛によって外界から私の衷に連れ込んで来た、謂《い》わば愛の捕虜の大きな群れなのだ。彼らは各※[#二の字点、1−2−22]自身の言葉を以て自身の一生を訴えている。そして私の心にさえよき準備ができているならば、それを聞き分け、見分け、その真の生命に於《おい》て再現するのは可能なことであるのを私は知る。私は既に十分に持っている。芸術制作の素材には一生かかって表現してもなおあり余るものを持っている。外界から奪い取る愛の働きを無視しては、どうしてこの明らさまな事実を説明することが出来ようぞ。しかも私の愛はなお足ることを知らずに奪おうとしている。何んという飽くことを知らぬ烈しいそれは力だろう。
 私達を貫く本能の力強さ。人間に表われただけでもそれはかくまでに力強い。その力の総和を考えることは、私達の思考力のはかなさを暴露するようなものであろうけれども、その限られた思考力にさえ、それは限りなく偉大な、熱烈なものとして現われるではないか。

        一九

 私は他を愛する形に於て凡《すべ》てを私の個性の中に奪っている。私はより正しきものを奪い取らんが為めに、より善く、より深く愛せねばならぬ。自己を愛することがかつ深くかつ善いに従って、私は他から何を摂取しなければならぬかをより明瞭にし得《う》るだろう。
 愛する以上は、憎まねばならぬ一面のあるのを忘れることが出来ない、愛憎のかなたにある愛、そういうものがあるだろうか。憎愛の二極を撥無《はつむ》して、陰陽を統合した太極というような形の愛、それは理論的に考えて見られぬでもないことではあるが、かくの如きものが果して私達人間の生活を築き上げてゆく上になくてはならぬ重大問題だろうか。少くとも私には、それは欲求であり得る外価値を持っていない。神の世界に於ては、或《あるい》は超越的|形而上学《けいじじょうがく》の世界に於ては、かかることは捨ておかれぬ喫緊事として考えられねばならぬだろう。然《しか》しながら一箇の人間としての私に取っては、それよりも大切な事は私が愛しかつ憎むという動かすことの出来ない厳然たる事実があるばかりだ。この一見矛盾した二つの心的傾向の共存は、私をいらだたせかつ不幸にする。何故ならば、私の個性はいかなる場合にも純一無雑な一路へとのみ志しているからである。
 然しながらよく考えて見ると、愛と憎みとは、
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